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20 サヨナラ、ありがとう。

 
 夜が更けていくのと同時に強まっていった雨の中、夕方からの仕事を終えて深夜に帰宅すると、ボクを待っていたのはシンと静まり返った暗闇だった。
 
 明かりを点けて部屋を見回すと、今朝紗弥香と一緒にこの部屋を出てきたときとは明らかに違う。
 
 玄関に置いてあったハズの、レモン色のスリッパ。
 冷蔵庫の脇のフックにかけてあったハズの、紺色のエプロン。
 クローゼットの中にしまってあったハズの、数着の衣服。
 洗面所にあったハズの、化粧品とハブラシ。
 
 そして、いつも二人で一緒に甘いミルクティーを飲んでいた、色違いでお揃いのマグカップ―――。
 紗弥香が使っていた物のほとんどが、部屋からなくなっている。
 
 ボクは、紗弥香と別れた。
 
 
 
 
 
「紗弥香、ホントに……ごめん。おまえのこと、嫌いになったわけじゃないんだけど……でも、ダメなんだ。あいつが……奈々子のことが好きなんだ」
 
 呟くようにボクが言うと、座りこんでうつむいていたボクの頬に、紗弥香の温かい手が触れた。
 顔を上げると、ワイン色のマフラーを着けた紗弥香が、ボクの顔を覗き込んで……微笑んでた。
 
「―――うん。きっと、そうなんじゃないかなって……思ってた。盟、いつもテレビでなーこちゃんのこと、愛おしそうに見てたもん」
「……テレビで? あれ……ボク、奈々子が『Andanteのなーこ』だなんて言ったっけ……?」
 
 ボクが聞くと、紗弥香は首を横に振って、
 
「ううん、言ってない。でも……分かるよ。あの帽子と眼鏡じゃ、変装になってなかったし」
 
 そう……か? ボクだって、すぐには奈々子だと分からなかったけど……。
 
「でも……なーこちゃんって、高橋くんと付き合ってるんでしょう? それに、さっき別の男の人と一緒にいたし……」
「え? 高橋? ――あ、違うんだ、あの記事は……」
 
 ボクはぐるっと辺りを見回して、周囲から自分たちに視線が向けられていないことを確認すると、紗弥香の耳元で、「あいつら、『兄妹』なんだよっ」と打ち明けた。
 
「えっ……えぇ? ほ、ほんとに!?」
 
 紗弥香は、驚いて開いた口がふさがらないって感じだ。
 
「こんなことウソや冗談で言えるかよっ。誰にも言うなよっ?」
「じゃ、じゃぁ、さっき『友達の妹』って言ってたのは……」
「だから……そういうことだよ。ボクはHinataを結成した13年前から奈々子のこと知ってるし、あいつらが『兄妹』ってことは、ボクにとっても奈々子は『妹』みたいなもんだったんだ……ずっと」
 
 ボクがゆっくりと立ち上がると、傘を手にした紗弥香もそれに合わせて立ち上がった。
 
「さっき一緒にいた男は……知らない。たぶん、奈々子の彼氏……なんだろうけど、でも……」
 
 ボクがそこで言葉を切ると、紗弥香は軽くうなずいて、
 
「自分の気持ちに気付いちゃったんだもん。言わずにいられないよね?」
「紗弥香…………」
「盟は……ウソつくのがヘタなんだもん。隠し事も……できないでしょ? 大人になっても、全然変わってないんだもん。そういうところが、好きだったんだけど」
「え? 『大人になっても』?」
 
 ボクが聞き返すと、紗弥香はふふっと笑ってかぶりを振った。
 ……あぁ、それだけボクが『ガキっぽい』ってことか。
 
「盟、きょうは夕方から仕事でしょう? その間に、盟のとこのわたしの荷物、全部片付けておくから……」
「……え? きょう? そんなすぐじゃなくても……」
 
 ボクがついそんな情けないことを言うと、紗弥香はさすがに一瞬呆れた表情をしたけど、すぐに笑って、
 
「他の女のコが好きって言ってるのに、一緒にいてあげられるほど、紗弥香ねぇさんはお人よしじゃないのっ。それに、わたしみたいな『安全牌』は早く捨てとかないと、いつまで経っても先に進めないよ?」
 
 うぅ……『正論』が刺さって痛いっ……。
 
「―――大丈夫」
 
 言いながら、紗弥香は再びボクの頬に触れた。
 
「盟なら、大丈夫だよ。やれるだけ、頑張ってみて。どうしても……どうしてもダメだったときは……」
「―――待っててくれてる?」
「……待ってないけど」
 
 ……なんだ、がっくり。まぁ、それが当然といえば当然だけどさ。
 
「でも、縁があれば、また……会えるよ。『二度あることは三度ある』って言うしねっ」
「……二度? 三度?」
 
 意味が分からず聞き返すと、紗弥香は少し寂しげな眼をした後、いつものようにすぐに笑って……ボクに顔を寄せて、唇にキスをした。
 
 付き合って一年半。
 心の中では『愛してない』と言いながら、何度も重ねた唇。
 不思議と故郷を思い出すようなこの優しいキスも、これで最後――――。
 
 ―――――――カシャッ!!
 
 …………ん? 『カシャッ!!』?
 
 唇を離して音のした方を振り向くと、カメラと傘を手にした、見知らぬ男が不気味に笑って立っていた。
 
「Hinataの中川サンよぉ。高橋に続いて俺にネタ提供してくれるとは、なんとも有難いことだな。『小雨の降る中、白昼堂々路上キス』……ってとこか?」
 
 男は、ククッと笑いながら言った。
 げぇぇっ!! ってことは、いまの……撮られたってことか!? (なんでこんなタイミングで……)。
 
「――ん? あ、ちょっと待て。もしかして、あの高橋の記事……撮ったの、あんたか?」
 
 ボクが男の方に向き直って聞くと、男は得意げに、
 
「そうさ。随分前から、Hinataの高橋とAndanteのなーこの二人に『似てる人物』が、同じマンションに出入りしてるって噂があってな。もし、本人同士だったらビッグニュースだと目ぇつけてたんだよ。なかなか尻尾を出さねぇから諦めかけてたんだけどよ……」
 
 いったんそこで言葉を切った男は、さらに笑みに不気味さを増して、
 
「この仕事だけじゃ食ってけねーから、俺、バーでバイトもしてんだよ。あんたもいただろ? あの芸人たちが集まってたパーティー。あんとき、バイト仲間が、あんたがなーこと話してるのを聞いてたんだよ。『高橋のこと』がどうの……って。で、そいつに、なーこに声かけてもらったんだよ」
 
 ……水谷さんの結婚パーティーの二次会の話か。
 あのときのボクと奈々子の会話って……。
 
『なぁ、おまえ、SHIOちゃんに話してないの?』
『え? 何が?』
『何っておまえ……。高橋のことだよ。』
『あ、……えっと…………話した……と思うよっ。』
 
 ……ってことは、あの記事が出るきっかけを作ったのは、ボクってことか!?
 
「雑誌の取材ってことでなーこから話を聞いたときにはたいした収穫もなかったけど、その後偶然にも、Hinataの高橋と鉢合わせしてよ。前に高橋の『熱愛報道』でっちあげてやったこと、あいつ覚えてたみてぇで、すんげぇー剣幕で睨みつけてきやがって。それで、確信したね。で、あいつらのマンションの前で張ってたってわけ」
「なるほどね。……で、あいつらが一緒に出かけたのを尾行したら、行き先は高橋の実家だった、と」
 
 ボクが言うと、男は「そういうこと」と、鼻で笑うようにして言った。
 
 ……あー、なんか、イラッとする。
 
 高橋がこの男のことを睨みつけたのは、自分のかわいい妹の周りを嗅ぎまわってるのが気に入らなかったんだろうし。
 
 それに、プロポーズがうまくいかなくて悩んでる高橋を心配して一緒に実家に行った、兄思いの奈々子の行動を踏みにじられてるみたいで。
 
 高橋兄妹の兄妹愛を変な風に利用されて、すんごいムカツク。
 
 いまここで、この男の『誤解』を解いてやりたいところだけど。
 かといって、事実を告げるわけにもいかないしなぁ……。
 
 ボクがどうしたらいいものか考えていると、男はさらに言葉を続けた。
 
「中川サンさぁ、いまなら高橋の記事のすぐ後だから、あんたでも一面のトップに載せてやれるぜ? そこのオンナは一般人だろ? 安心しろよ、ちゃんと顔は分かんないようにしといてやるから―――」
「ちょっと待ちなさいよっ。あんた、自分の姉をつかまえて、『そこのオンナ』はないでしょ!?」
 
 突然、それまでボクの隣でずっと黙っていた紗弥香が言葉を発した。
 男は、紗弥香の顔をじっと見つめて、みるみる表情を変えた。
 
「……げっ!! ね、ねぇちゃんっ!?」
 
 ――――『姉』!? 『ねぇちゃん』!?
 
 驚いて見ると、紗弥香は持っていた傘をボクに無言で手渡して、そしてツカツカと男の前に歩み出たかと思うと、男が手にしていたカメラを奪い取って……。
 
 ――ガシャンッ!!
 ……と、地面に叩きつけた。
 
「あああああっ!! な、なにすんだよっ、俺のカメラっ!!」
「最近見かけないと思ったら、こんなバカみたいなことしてっ!! お父さんもお母さんも心配してるのよっ!! ほんっっとにもう、どうしようもないんだからっ!!」
 
 紗弥香は男の頭をスパンッ!! と叩いて、男から傘を奪い取ると、男の腕を引っ張って歩き出した。
 
「あ……さ、紗弥香っ……!!」
 
 ボクが思わず呼びとめると、紗弥香は振り返って軽く手を振り、いつものように笑って、そして再び男を引きずるようにして、去っていった。
 
 ボクは、紗弥香が残していったちっぽけな折りたたみ傘を手にしながら、さっきよりいくらか強まってきた雨の中を遠ざかっていく紗弥香(と、引きずられている男)の後ろ姿を、ずっと見つめていた。
 
 遠い昔に、こんな光景を見たことがあるような気がするな……と、頭のどこかで思いながら。
 
 
 
 
 
 
 郵便受けに入っていたシンプルな茶封筒には、この部屋の合鍵と一枚の便せん。
 たった一言、『ありがとう』――――。
 
『ありがとう』なんて、ボクが言わなきゃいけない言葉だよな。
 居心地のよさにずっと甘えて、何もしてやれないで……。
 それなのに、最後には、他の女が好きだと言ったボクの背中を押してくれた。
 
「ありがとう、紗弥香……」
 
 声に出して呟いてみても、仮に、大声で叫んだとしたって、届くはずもない。
 
 いつもより何倍もの寒さと静けさを感じながら、明日の朝には消えてしまうようなわずかな紗弥香のぬくもりをベッドから探すようにして、ボクは眠りについた。
 
 
 
 
 
 
 

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