枕元で、オレのケータイが鳴ってる。
この着信音は、マネージャーの深谷からの着信だ。あぁ、早く出なきゃ……。
思いっきり寝ぼけながら、ケータイの位置を探るために手を伸ばそうとして、オレはようやく異変に気付いた。
誰かが……オレの手を握っている。
――――誰だ?
「……ねぇ、ケータイ鳴ってるよ?」
女の声だ。
……そりゃ、そうだ。オレには男に手を握られて眠るシュミなんて、ない。
「マネージャーかもしんないよ? ねぇ、起きてっ」
分かってるよ。分かってるから、まず、オレの手を握ってるその手を放せよ。
ん……あー、違う。これ、握ってんのはオレの方だ。
身体が思うように動かせない。
気のせいか、頭痛もする。
重たいまぶたを、なんとか無理やりこじ開けてはみたけど、なかなか焦点が合わない。
「ケータイ、切れちゃうよっ! ねぇ…………盟にぃってばっ!!」
心臓が口から飛び出るかと思った。
……と言うのは、さすがに大袈裟すぎるけど、とにかく一瞬で目が覚めた。
オレが眠りながら握っていた、その手の持ち主が誰なのか、分かったからだ。
「……奈々子?」
念のために聞いてみると、オレに手を握られたままのその女――奈々子は、ニコッと微笑んだ。
いや、もちろん、確認するまでもなかったんだけどさ。
オレのことを『盟にぃ』なんて呼ぶのは、奈々子以外にいないんだから。
「あーあ、ケータイ切れちゃったよ?」
「な、なぁ、奈々子……」
「ん?」
「いや、なんでも……ない」
危険すぎる、という予感がした。
今、自分の置かれている状況について、奈々子に説明を求めるのは。
引っ越してきたばかりの、この部屋。
新しく買い直したセミダブルのベッドの上に。
どうして、オレと奈々子が……一緒に寝てんのか。
しかも……手を握ったりなんかしちゃったりして。
思い出せ、オレ。自力で思い出すんだ。
昨晩、オレと奈々子の間に何があった?
……ダメだ。思い出そうとすればするほど、頭痛が酷くなっていく。
まるで、酒を飲み過ぎて記憶をなくして二日酔い、みたいな……。
「中川さぁん、この箱はこっちの部屋でいいの?」
「うん。……あ、やっぱりそっちの部屋に置いといて」
「盟くん、これ、僕が貸したゲームソフトじゃない?」
「あぁ、高橋から借りてたんだっけ。悪い、すっかり忘れてた」
「エッチなDVDとかはないの?」
「吉沢……まさか、それが目当てで手伝いに来たのかよ」
記憶がさかのぼりすぎた。
今から一ヶ月くらい前。2月下旬の日曜日。
オレは、たまたまスケジュールの空いていた高橋と一緒に、事務所にレッスンを受けに来ていた吉沢を連れだして、引っ越し作業をしていた。
できれば、もっと人手が欲しいところだったけど、気心の知れた人間でないとあれこれ指示もできないし(オレって結構、他人に気を遣うタイプなんだよ。いや、マジで)。
他に頼めそうな人って言ったら、直くんと希さんと、マネージャーの深谷くらいだけど、みんな忙しくてさ。
そんなわけで、少々時間が掛かってもこのメンバーでやっちゃおうってことになったんだ。
「あーあ、中川さんのカノジョ、見てみたかったなぁ。紹介してくれるって言ってたじゃん」
と、吉沢が言った。
「なんで別れちゃったんっすか?」
「んー、まぁ、いろいろとあるんだよ、大人になると」
「あれでしょ? 中川さんが浮気して、カノジョが怒っちゃったんだ。だから、カノジョから逃げるために引っ越しするんでしょ? 樋口さんが言ってたよ」
「はぁっ? 直くん、そんなこと言ってまわってんの? ひどいよなぁ」
テレビの配線をつなげながら、さらりと笑い飛ばしてやった。
顔は絶対引きつってんのが分かってるから、二人には背を向けたまま。
『カノジョから逃げるために引っ越しする』。
ある意味では正解かもしんない。
もちろん、前のカノジョが乗り込んでくるからとか、そんな理由なんかじゃない。
一言で表すなら、『記憶』。あるいは、『習性』。もしくは、『思い出』。
愛してなかったとはいえ、一年半も付き合っていれば、ある種の情というか愛着というものはあるわけで。
それに、前向きにきちんと向き合って付き合っていこうと考えていた時期も、……結果的に、ごくごく短い期間に終わってしまったものの、存在はするわけで。
そんな、前のカノジョとの記憶がまだ残るあの部屋に、新しいカノジョ(になる予定)の奈々子を連れ込む気にはなれない……ってのが、引っ越しの一番大きな理由。
例えば、苦労して良い雰囲気に持ち込んだところで、うっかり前のカノジョの名前を口走るとか……最悪のミスを犯しそうな気がするんだよね、オレ。
不安要素は出来る限り、取り除いておきたいじゃん。明るい未来のためにも。
「盟くん、テレビの配線つながった?」
と、高橋がオレの顔を覗き込んだ。
……危ない。いまは、考えごとなんてしてないで、引っ越し作業に専念しよう。
引っ越しの動機に奈々子が絡んでるなんてことが、万が一にも高橋に知れたら、オレはこの新しい部屋で本格的に生活を始める前に、あの世行きになってしまう。
「あぁ、これでちゃんとつながったハズ」
「じゃぁ、電源入れてもいい?」
「いいけど……日曜の昼だぞ? 何かやってんの?」
オレの質問を無視して、高橋はゴキゲンな様子でテレビの電源を入れた。
画面に映し出されたのは、毎週この時間に放送されてるトーク番組。
……って、なんだよ。ゲスト、道坂さんじゃん。
こういう番組でよくありがちな、自宅公開映像。
道坂さんが部屋の中のいろんなものを紹介している映像の隅に、『撮影:高橋諒』のテロップが。
「おまえが撮ったのかよ」
「うん。最初は道坂さんが撮ってたんだけど、手ブレがあまりに酷すぎて。あぁ、もちろん、ウチの事務所にも許可はもらってあるよ。僕の声も入っちゃったし」
やがて道坂さんはベランダへ出て、片隅にあるプチガーデニングコーナーへ。
撮影したのは2月の初めだということで、育てている植物はあまりないようだけれど。
『この簡易温室みたいなものは、高橋くんが作ってくれたんだけど、完成度が良いのか悪いのか、育ててる薬味ネギの生長が早すぎて、ちょっと困ってるのよ』
『道坂さんの頭の白髪ネギも、最近、成長が早いです』
『うるさいわね。仕方ないじゃない、37なんだから。自分だって、いまにたくさん生えてくるのよ。30過ぎたら、手がつけられないんだから。ハサミなんかじゃ追い付かなくなるわよ』
「おまえ、ハサミで白髪切ってんの?」
「うん。見えないところは、道坂さんにお願いして切ってもらってる」
「……あっそ」
なんというか、こう、ものすごく不思議な感覚だった。
高橋と道坂さん。この二人が付き合ってるんだと奈々子から聞かされたときには、絶対に嘘だろっ!? と思ったくらい、異色の組み合わせだと感じていたのに。
こうして、高橋が撮影した映像を見ていると、二人の間には『違和感』なんてものがどこにも存在してないんだ。
何気ない会話。
何気ない日常。
引っ越し作業の手を休めて、テレビの画面を見つめている高橋が発している『幸せオーラ』といったら、見てるこっちが呆れてしまうほどだけど。
同時に、うらやましいよなって思った。
そういう相手に出会えるって、やっぱり奇跡的なことだと思うから。
「それで、どうなんだよ、新婚生活ってやつは」
「んー……まぁ、それなりに」
「なんだよ、その曖昧な返しは」
「いや、カノジョと別れたばかりの盟くんの前で、ノロケるってのも、なんだか悪いし?」
「…………なんか、ムカツク。いっぺん殴っていい?」
「嫌だよ。ところで、来月の後半のどこかで、奈々子の誕生日会でもしようかって、道坂さんと話してるんだけど、盟くんも来る?」
「奈々子の誕生日会? あいつの誕生日って、いつだっけ」
「3月31日。スケジュールの都合とかもあるから、当日は無理だと思うんだけど」
「メンバーは?」
「誕生日会っていっても、ウチで軽く食事するだけだから、奈々子本人以外は、今のところ僕と道坂さんだけ。どうする?」
「んー……そうだな、考えとくよ」
「あっ、オレも行きたいっ!」
吉沢がびしっと手をあげると、高橋は、
「吉沢、道坂さんと会ったことある?」
「ない」
「じゃぁ、やめておいた方がいいかも。あの人、ああ見えて、結構人見知りが激しくてね……」
その後の、高橋と吉沢の会話は、あんまり重要っぽくなかったから聞いてなかった。
奈々子の誕生日……か。
高橋たちと一緒に祝ってやるっていうのも、もちろんいいけど。
できることなら、二人きりで……ってのが、いいよな。
オレの引っ越し作業と、奈々子のドラマ収録が落ち着いたら、遊びにおいでって既に誘ってあるわけだし。
あいつも、もう大人(えーっと、確か、今度で25になるのか?)なんだから、わざわざ二人きりで誕生日を祝うってことになれば、さすがに気づくだろう。
オレが、奈々子のことを『妹』としてじゃなく、ひとりの『女』として見てるってことに。
……あぁ、そうだ。思い出した。
この後の3月後半、予定通りにドラマの収録が終わった奈々子と連絡を取り合った。
ラッキーなことに、3月31日――奈々子の誕生日当日の夜、お互いのスケジュールが空くことが分かって、二人で会う約束をしたんだ。
その3月31日が、昨日だった……ということまでは、思い出したけど。
だから、その、奈々子の誕生日の夜、オレたちの間に何があったんだっけ……?