更に月日は流れて、5月。
今日は、Hinataのアルバムのジャケット撮影のために、とあるスタジオに来てる。
あれから――奈々子の誕生日から、一ヶ月以上が過ぎたわけだけど。
オレと奈々子の関係に何か変化があったのかというと、……実はよく分からない。
強いて言うなら、奈々子からのメールの回数が増えたってことくらいだ。
直接会って話でもすれば、酔って失くした記憶の端っこくらいは思い出せるんじゃないかと期待してはいるんだけど。
お互い、なんだかんだと忙しくて……あれ以来、一度も会えてない。
「あれ? 盟くん、少しやせた?」
撮影用の衣装に着替えたオレに、同じく着替えを終えた高橋が声をかけた。
「え、マジで? やせた?」
「と、いうか、疲れてるように見えるけど。大丈夫?」
「んー……最近、忙しいからなぁ」
「あぁ、秋から始まる新番組の? 情報番組だったっけ?」
「そう。『最低限、これだけ勉強しておいて』って渡された資料があるんだけどさ、その『最低限』がハンパないんだよ」
だから、この一ヶ月くらいは帰宅した後もずっと、勉強勉強……の生活。
自分でメシ作って食う時間も惜しくて、気付けば菓子パン一つで一日済ませた日もあった。
料理するのは嫌いじゃないから、冷蔵庫にはそれなりに食材があるにはあるんだけど、今はもう、中身がどうなってるのか怖くて開けられない。
今日みたいに、どっかのスタジオで仕事なんて日は、弁当出してもらえたりするから、すごくありがたいんだけど。
「ねぇ、今日の弁当ってなんっすか?」
通りかかったスタッフに聞いてみると、返って来た答えは、
「トンカツですよ」
「えぇっ……トンカツ? もうちょっと軽いのないの? シャケ弁とか」
「ないです」
スタッフはさらっと答えて、忙しそうに去っていった。
今のオレには、トンカツなんて重たすぎて食えないって……。
着替えもメイクも済ませたオレは、スタジオが入ってるビルの一階にある売店に行ってみた。
シャケ弁は無理でも、菓子パンやおにぎりくらいは置いてあるはずだ。
ほら、予想的中。
トンカツは食べられそうにないけど、弁当のご飯と付け合わせだけじゃ、さすがに足りないからな。
菓子パンが山のように積まれているワゴンの前に立ったオレは、そこでようやく、ワゴンの向こう側にいる『あいつ』の存在に気付いた。
「わぁ、盟にぃっ、偶然だねっ。盟にぃも撮影?」
「う……ん」
おいおい、それだけかよっ、オレっ!
会って話がしたいと思ってた奈々子が、目の前にいるんだぞっ?
……なんて、いざ本人が目の前に現れてみると、頭ん中からっぽになっちまうもんなんだな。
まぁ、現れた奈々子の姿が、いつもとちょっと違うっていうのも、あるんだけど。
「盟にぃ、どうしたの?」
「ん? や、いや……っていうか、おまえこそ、なんて格好してんだよ」
奈々子もオレたちと同じように、何かの撮影なんだろうけど。
羽織ってるガウンの裾の長さは、推定股下5センチ。
その裾から伸びる脚には黒いストッキングと……太ももに、ガーターベルト。
「あのね、今度のシングルのジャケット撮影なの。セクシーっつーか、エロカッコイイっつーか、そういう感じ」
「まさか、そのガウンの中は下着とか……」
「ちっ、違うよぉーっ! ちゃんと着てるしっ! っつーか、盟にぃの衣装もカッコイくない?」
「そ……そうか?」
ちなみに、いまオレが着てるのは黒のスーツ。
メンバーの年齢もだいたい30歳になったってことで、今回は少々オトナ路線。
擬似的に社内恋愛を体感できちゃいそうなイメージ、ってのがコンセプトらしいけど。
ゴールドのピンやチェーンがあちこちについてて派手過ぎるから、この格好じゃ会社には行けそうにないな。
直くんにいたっては、金髪のままだしね。どこにそんな会社員がいるっていうんだよ。
そんな感じで、奈々子と雑談を交わしながら、適当に買い物を済ませた。
聞きたいことはあるはずなのに、なかなかキッカケがつかめないまま。
奈々子の様子も、普段と全然変わりないし……『あの晩』のことはあまり深く考えなくてもいいのかもしんない。
つまりは、こういうことだ。
ずっと慕っていた大好きな兄である高橋が結婚してしまって、なかなか構ってもらえなくなった奈々子は。
同じく兄のように慕っていたオレに、構ってもらおうとしているワケで。
奈々子にとって、オレは、今まで以上に『お兄ちゃん』な存在……なんだろう。
そうでなければ、同じベッドの上で一晩過ごして何事もなかったなんて、あり得るはずがない。
できれば『一人の男』として見てもらいたいオレとしては、正直、厄介な展開になってるって感じだけど。
あれだけ策を練って、全てを賭けて挑んだ奈々子の誕生日の夜。
あの夜、見事なまでにコケてしまったんだから、この先、長期戦になるなんてことは覚悟の上だ。
焦らずじっくり……何年掛かっても、いつかはオレのオンナにしてみせる!
……と、思い始めた矢先だった。
奈々子と一緒に売店を出たオレは、売店の目の前にあるエレベータのボタンを押そうとした。
もちろん、撮影するスタジオのある3階に戻るためだ。
だけど、上向きの三角が描かれたボタンを押すことはできなくて、どうしてできなかったのかというと。
奈々子が、オレが着ているスーツの袖口をつまんで、クイッと引っ張ったからだ。
「……奈々子?」
不思議に思って、軽くうつむいてる奈々子の顔を覗きこむ。
すると、少し顔を赤らめた奈々子は、オレのスーツの袖口をつまんだまま、オレの耳元で、ささやくようにこう言った。
「ね、盟にぃ。階段で……行こ?」
奈々子が引っ張ってオレを連れて行ったのは、エレベータ横にある階段じゃなかった。
フロアの端にあって人があまり来ない、言ってみれば非常階段的に使われてるような場所。
メインで使われてる階段と違って狭いし、照明も最低限しか設置されてない。
そんな、薄暗い階段の二階と三階の間にある踊り場で、奈々子は足を止めた。
「……やっと会えたぁ」
奈々子はそう言って、額をオレの胸元にコツンと当てた。
「な、ど……どうしたんだよ、奈々子」
「だって、会いたかったんだもん。一ヶ月とちょっとぶりっしょ? メールだけじゃもの足んないっていうか……ね、盟にぃは?」
「え?」
「盟にぃは、あたしに会いたかった?」
上目遣いにオレを見つめる奈々子の瞳。
潤んだその瞳と、羽織ってるガウンのせいもあってか、妙に色っぽく見える。
オレだって、奈々子に会いたかったに決まってんだろ?
……なんて言ってみようかと思ったけど。
それってなんだか、付き合い始めたばかりのカップルみたいじゃん?
っていうか……今日の奈々子って。
それこそ、付き合い始めたカレシにようやく会えたカノジョ……みたいな。
そんな感じに見えてしまうのは、オレのうぬぼれってヤツだよな、たぶん。
「あの……さ、時間大丈夫か? おまえも撮影だろ?」
「うん。あたしはまだ平気だよっ。汐音のメイクにちょっと時間が掛かるんだって。盟にぃはもうすぐ始まっちゃう?」
「いや、分かんないけど、ちょっと買い出しっつって抜けてきただけだし、そろそろ戻んないと……」
「……そっか。じゃぁ、ちょっとだけ」
「え……?」
「――――ん」
そう言って奈々子は目を閉じて、唇を突き出した。
奈々子のこのポーズは、オレのうぬぼれでもなんでもなく……。
どう見ても、その……キスを要求されてるようにしか見えない。
「なっ……なな何してんだよ、奈々子?」
「大丈夫。今日は落ちにくいリップだから、軽くだったら全然平気だよっ」
「そっ、そういう問題じゃないだろっ!?」
いつもは桜色をしている奈々子の唇が、今日は色気のあるローズピンクだ。
撮影のためのメイクだと分かってんのに、どうにもこうにも誘惑されてるような気になってしまう。
……いや、これって、もしかして、オレ、誘惑されてんのか?
誰も来ない階段の踊り場にわざわざ連れ込んで、こうしてキスをせがむなんて。
誘惑? 奈々子がオレを?
でも……奈々子にとってオレは『お兄ちゃん』なんじゃないのか?
ダメだ……。マジで意味分かんない。
分かんないなら、いっそこのまま、キス……しちゃってもいいのかもしんない。
「ねぇ、盟にぃ。ちょっとだけ。…………ダメ?」
「……じゃぁ、ちょっとだけ、な」
うれしそうに頷く奈々子の頬を両手で包み込むと、奈々子はゆっくりと目を閉じた。
よく分かんないけど……いいんだよな?
……まさか、夢オチじゃないよな?
いや、もう、夢でもいい。このまま覚めなければ……。
「奈々子……」
ローズピンクに彩られた唇に、オレは自分の唇を近付けた。
あと3センチ進めば、オレと奈々子の唇は触れていた……ハズだった。
夢から覚めたわけじゃない。
やっぱり現実だったんだ。
あと少しで唇が触れるというところで、三階から音が聞こえた。
スニーカーの靴底が床を蹴って鳴らした、キュッという音が、薄暗い階段に響く。
「はい、ストップ。――――そこまで」
同時に飛んできたのは、逆立ちしても逆らえない、年下の上司の短い一声だった。