09 年下の上司は激怒した。

 オレと奈々子は、階段の踊り場から、声の聞こえてきた三階を見上げた。
 見ると、年下の上司――希さんが、不機嫌そうに腕組みをして立っている。

「探したよ、二人とも。こんなトコで何してんの? 仕事中でしょ?」

 淡々とした口調に無表情。

 ひぃぃっ! 希さん、すげぇ怒ってんな……。って、そりゃそうだよな。
 希さんから見れば、部下が仕事サボって女とイチャついてたようにしか見えないわけだからさ。

 怒ったときの高橋の目が『相手を瞬殺する殺人ビーム』だとするなら。
 怒ったときの希さんの目は『相手をじわじわといたぶる鋭いナイフ』だ。
 もし殺されるならどっちがいいか? ……なんて、どっちも嫌に決まってんだろっ!

「あーあ、もうちょっとだったのに」

 奈々子はオレからすいっと離れながら、唇をとがらせた。

「何が『もうちょっと』なのさ。キミのマネージャーが探してるんだよ。『お兄さんたちのとこに行ってませんか?』ってね。須藤サンのメイク、もーすぐ終わるらしいよ」

 と、希さん。

「うっそ。マジで? 汐音ってば早ぁい!」

 奈々子は、バタバタっと階段を駆け降りて、二階のフロアに入る直前に振り返ると、オレに向けて、一言。

「盟にぃ、また後でメールするねっ!」
「え? あぁ……うん」

 ……と、オレが返事をするより先に、奈々子は二階のフロアへと消えていった。
 途端に、オレがいる階段の踊り場は、恐怖の静寂に包まれる。
 おそるおそる、三階を見上げてみると……。

「何してんの、中川。早く上がってきてよ」

 希さん、口元は笑ってるけど、目は笑ってない。
 やっぱり、怒ってる――っ!

「あの……希さん」
「なに?」
「すみませんでした」
「なにが?」
「スタジオに戻るのが遅くなって。下の売店で偶然、奈々子に会ってさ、久し振りだったもんだから、話が盛り上がっちゃったっていうか……」
「へー。話が盛り上がっちゃったら、職場でもキスしちゃうワケだ、キミたちは」
「うっ……いや、あの……」
「たまたま通りかかったのがボクだったからよかったケドさ。他の誰かに見られてたらどうなってたか、分かるよね?」

 他の誰かに見られてたら……。
 あっという間に広がるウワサに、尾ヒレや胸ビレや尻尾がくっついて……。
 それを耳にした高橋は怒り狂ってオレを殺……いやいやいやいや、希さんが言ってんのはそういうことじゃなくて。

 お互い仕事を抜け出して、キスしようとしてたなんて世間に広まったら。
 オレも奈々子も、アイドルとしてのイメージダウンは必至だ。

「……はい。すみませんでした」

 年下の小さな上司に向かって、オレは深々と頭を下げた。

「分かってくれたなら、いいケド」

 そう言って、希さんはくるりとオレに背を向けて、スタジオの方へと歩き出す。
 オレは、慌てて希さんの後を追った。

「希さん」
「まだナンかあるの?」
「いや、その……高橋に告げ口とか……する?」
「なんでボクが? 言わナイよ。自分で言えば?」
「……それ、自殺勧告?」
「結果的にそーなるかどうかはキミ次第だケドさ、いつまでも黙ってるワケにもいかないでしょ」
「いや、でもさ、さっきのは奈々子の方から迫ってきたっていうかさ、その……アレだよ。高橋がかまってやれなくなったから、オレに甘えてきてるってだけでしょ?」

 オレが言うと、希さんは怪訝そうに眉にシワを寄せた。

「……中川、キミ、まさか、まだ思い出せてナイの?」
「え? 何が?」
「自分があのコに何を言ったのか。あのコの誕生日に」
「……オレ、奈々子に何かそんなに重大なこと言った?」

 オレの言葉に、希さんは深いため息。

「はぁ~ぁ、ナンでキミなんだよ。ボクにはさっぱり理解できナイよ」
「……は? 何が?」

 理解できないのは、希さんの発言の方なんだけど。
 希さんは、けだるそうにかぶりを振った。

「別にー。そうだ、近々Hinataのライブやるよ」
「え、マジで? いつ?」
「夏」
「夏っ!? そんな話、聞いてないよ。いつ決まったの?」
「いま」
「はぁっ!? ちょ……なにも準備してないじゃん。いま5月だよ? 間に合うの?」
「間に合わせる。不可能なんてナイ」

 そう言って、希さんはスタスタとスタジオの中へと入っていってしまった。
 夏まで、もう何ヶ月もないのに……ライブなんて本気で言ってんのかな。

 さて……。この辺で一度、状況を整理してみよう。

 奈々子の誕生日の夜、オレは奈々子に何か重大な発言をしたらしい。
 だけど、オレはすっかり忘れてしまっている。

 奈々子に直接聞くっていうのが、一番手っとり早いんだろうけど、なんだか申し訳ない気がするんだよな。
 その『発言』ってやつが重大であればあるほど、『忘れた』なんて言ってしまった日には、オレの信用は地に落ちてしまうだろうし。
 希さんがなぜか事のすべてを知っているようではあるけど、教えてくれる気はどうやらないらしい。

 仕方ないから、ここは一つ、忘れてしまった重大発言については、とりあえず横に置いておこう。うん。

 今のオレにとって重要なことは、現状において、奈々子はオレのことをどう思っているのか……だ。
 ……って言っても、その答えはもう見えてる。

 奈々子は間違いなく、オレのことが好きだ。

 だってさ、あいつはオレにキスをせがんだんだぞ?
 好きでもないオトコとキスなんて、フツーはしないだろ?

 ……え? 『おまえは好きでもないオンナとキスしたくせに』、だって?
 そんな過去の話は忘れてくれよ。今のオレは昔のオレとは違うんだから。

 えーっと、話を戻して……もう一つ、大事なこと。
 奈々子がオレのことを『オトコ』として見てくれてるのか。
 それとも、高橋と同じ『兄』なのか。

 どう考えたってさ、いくら奈々子が兄である高橋のことを好きだからって、高橋にキスをせがんだりするか? しないだろ。
 だから、決まりだ。奈々子はオレのことを、ちゃんと『オトコ』として見てくれてる。

 もうさ、『付き合ってる』ってことにしちゃってもいいんじゃないの?
 ほら、いまも届いた奈々子からのメール。

『盟にぃ、会いたいよー。今度はいつ会えるかな?』

 自撮りしたらしい写メ(パジャマ姿だ)なんかつけてきちゃってさ。
 愛しすぎて、恋しすぎて。
 仕事の帰りに買ったシャケ弁当も、まったく喉を通っていかない。

 あぁ、奈々子。オレも会いたいよ。
 だけど……ごめんな?
 オレがおまえに『会いたい』って思えば思うほど、仕事がどんどん増えていくんだ。
 誰かが仕組んだ陰謀じゃないかっていうくらいに。

 オレの予想では、オレンジ色の髪の上司の仕業じゃないかと思う。……たぶん。

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