「よし、中川。おまえはここに立て」
直くんに促されてオレは、スタジオの半分を覆い隠している巨大な白いカーテンの前に立った。
「何だよ。このカーテンの向こうに何があるんだよ」
「そんなに焦るな。ところで、最近おまえ、疲れてんだろ?」
勿体ぶった口調で、直くんがオレの肩を叩く(何が『ところで』なんだか)。
「……そうだね。少し、疲れてるかもしんない」
「だろ? 今はテレビ用にメイクしてっから分かんねーけど、さっきまで顔色すっげー悪かったもんな」
「やだなぁ、直くん。いくらなんでも大袈裟すぎるっしょ」
なぁんて……確かに、鏡に映った自分の姿がゾンビかと思ったけどさ。
「そんな中川にだな、今日は思う存分、癒されてもらおうってわけだ。折しも、今月はおまえの誕生日もあるわけだしな」
直くんは再び、オレの肩をポンと叩いた。
「おめでとう、三十路!」
三十路。
そうか。オレ、もうすぐ30歳になるのか。
……ってことは、もう『おっさん』じゃん。
恋だの愛だのって、浮いたり沈んだりしてる場合じゃないじゃん。
考えようによっては、これでよかったのかもしんない。
もうすぐ三十路を迎えるっていうこのタイミングで、失恋ってのも。
「っていうかさ、直くんは自分と同じ30代が増えるってのがうれしいだけで、別にオレの誕生日を純粋に祝う気持ちなんてないでしょ」
「あぁ、ないな」
「……だったらさ、もういいじゃん。オレ、さっさと帰って寝たいんだよ。さっき『癒されてもらう』とか言ってたけどさ、どうせ足つぼマッサージとか、整体とか、痛いコトすんじゃないの? 嫌だよ、オレ。帰る……って、やめろよ高橋っ! 放せ!」
「心配するな。今回はそういう方向じゃないものを用意した」
直くんはカーテンの向こう側を指して、ニッと笑う。
……うん、ここまでの流れは、だいたい台本通りだ。
毎年この企画の時だけ、ここぞとばかりに張り切って進行役を務める、直くん。
祝福とは名ばかりの嫌がらせから逃れようとする、オレ。
そして、嫌がるオレを羽交い絞めにして強制連行する、高橋。
さてさて、この先はいったいどうなることやら。
期待1割、不安9割……ってのが、今の正直な心境。
ホントに、全く、何も聞かされてないんだよ。何度も言うようだけど。
「中川、おまえ最近、手料理食ったか?」
「……は?」
「最後に手料理を食ったのは、いつだ?」
「手料理? 2、3か月前に自分で作って食ったけど?」
「そうじゃねーよ。誰かに作ってもらったのを聞いてんだ」
「何で答えなきゃなんないんだよ?」
「いつだ? 言え」
半年前まで付き合ってたカノジョが作ったフレンチトースト。
「ええっと……5、6年前かな、実家で食った、母さんが作った筑前煮」
「本当か?」
「ホントだよ」
ウソだけど。
「じゃぁ、喜べ。今日は5年振りの手料理を食わせてやる」
「誰が作ってくれるんだよ?」
「それは、今は言えねーな。このカーテンの向こうに、既にスタンバってるぞ」
直くんは企画の進行が書いてあるカードで、カーテンをペチペチ。
手料理……か。
そう言えば、奈々子の誕生日のときは、オレがコーンスープ作ってやったんだよな。
あいつ、「うわぁー、これ、超おいしー!」って……目に涙なんか浮かべちゃってさ。
コーンスープに浮かべた、手作りのクルトン。
伊達メガネして買ってきた、デパ地下のローストチキン。
部屋のあちこちに仕掛けた25本のロウソクの灯り。
オレの隣で、グラスに入ったワインを満足げに傾ける奈々子の横顔……。
今にして思えば、あの時ちゃんと言っておけばよかったんだ。
オレはおまえのことが――奈々子のことが好きなんだ、って。
あれこれ変に小細工したり、酒の力に頼ったりなんかしないでさ。
そうしたら、奈々子がうれしそうに柿元さんに語る『カレシ』は、オレのことだったかもしんないのに。
「どうした、中川」
直くんがオレの顔を心配そうにのぞきこむ。
「おまえ、今、意識飛んでなかったか? 大丈夫か? 限界だったら一旦収録止めてもらってもいいんだぞ? 無理するな」
不思議なもんだな。
普段はすんごい存在の薄い直くんなのに。
こういう、いざってときには、誰よりも頼りになる存在。
直くんの、このミルクチョコレートみたいな声のトーン、オレは結構好きだったりする。
「大丈夫だよ。そういえばオレ、最近まともなモノ食ってないなーって、考えてただけ。もう、腹減って倒れそう」
うん、大丈夫。
そろそろ気持ちを切り替えよう。
失恋ごときで落ち込んでいられるほど、オレはヒマ人じゃないんだ。
秋からの新番組もあるけど、(希さんがいきなり言いだした)夏のライブもそろそろ本格的に準備が始まる。
仕事、仕事、仕事の毎日。
そうしていれば、次に奈々子と会う頃には、きっと気持ちも落ち着いて、昔みたいにフツーに話ができるようになってるだろ。
「本当に大丈夫なんだな?」
「うん」
「心の準備はいいか?」
「おうよ。誰がどんな手料理作ってくれるのか分かんないけど、このオレが皿ごと全部食ってやる」
……とは言ったものの。
いったい、誰が来るんだろう?
婚期を逃して売れ残ってる独身女芸人か?
それとも、ここのところ伸び悩んでる中堅タレントか?
意外と、料理上手なおネエ系ってパターンも……。
「くれぐれも、喜びすぎて相手に抱きついたりすんなよ? じゃ、カーテン、オープン!」
直くんの合図で、大きなカーテンがバサッと落とされた。
――ん? 今、直くん、何て言った?
『相手に抱きつくな』……?
その言葉がどんな意味を持っているのか、オレの頭の中で処理が始まるよりも先に。
それまでカーテンの向こう側にいた、その相手が、オレの目の前に姿を現した。
黒を基調としたフリフリのメイド服を着た天使が、両手を広げて叫ぶ。
「盟にぃ、お誕生日おめでとーっ!!」
オレは、思わず踵を返した。
「帰る」
「は? 何言ってんだよ中川」
「帰るって言ってんだよ。はい、お疲れっしたーっ。撤収―っ!」
スタジオの出口に向かって、オレは歩き出し……たかったのに、すぐさま高橋に再び羽交い絞めにされてしまった。
「放せよ高橋っ。ダメだって。無理なんだって。っていうか、勘弁してくれよ」
「何で逃げるんだ、中川。おまえがいつも『癒される』って言ってる相手だぞ?」
直くんに指差されたメイドは、登場した時と同じ場所でずっとオレを見つめる。
確かに、いつも言ってたよ。
こいつといると癒される、って。
でも、無理なんだ。今だけは、ホント、マジで。
オレは、たった今、ほんの30分前に、このメイドにフラれたばかりなんだって。
このフリフリのメイド服を着た、奈々子に。
「だっ……あっ、そうだっ! あいつ、料理なんてできないだろ? ほら、今日はオレに手料理を作ってくれる企画だって言ってたじゃん。こ、米を砥ぐのに洗剤を使うような女だぞ!?」
「盟にぃ、ひどぉい! それ、あたしが小学生だったときの話っしょ? 今はもう、ちゃぁんとできるよっ!」
奈々子は右手に包丁、左手にフライパンを握りしめて、スタジオに準備されたキッチンに立ってスタンバイ。
「よかったじゃねーか」
と、直くん。
「こういう『妹』が欲しかったんだろ? 最高の誕生日だな」
「っていうか、絶対無理だろ。なんで包丁とフライパンを同時持ちなんだよ。あいつに料理なんてできるわけ……」
ポンポンっと。
オレの肩を叩いた高橋は、哀れむような目でオレをじっと見つめ、ゆっくりと首を横に振った。
『観念しろ』ってことかよ。
あぁ……今すぐここから逃げ出したいよ。