02 新大阪駅 ホーム~改札

「……大阪?」

 おそらく深夜一時過ぎ。
 気配を感じて目を覚ますと、ベッドのすぐ脇で諒くんが呟いた。
 リビングからの明りだけを頼りに、ベッドの横の壁に掛けてあるカレンダーを見てたみたい。

 諒くんの濡れた髪から、しずくが肌を伝って落ちてく。

「……ちゃんと身体拭きなさいよ」
「あ、起きてた?」
「寝てたわよ。起きちゃったの。っていうか、パンツくらいはいてよ」
「いま、お風呂から出たところなんだよ」
「そんなことは分かって――」

 おでことほっぺたに、ぽたぽたと冷たいしずくが落ちて。
 鼻のてっぺんに、諒くんの温かい唇。

「ただいま」
「……おかえり」

 諒くんは、視力の悪い私でもハッキリ見える位置でやさしく笑う。
 この人が、いとしの旦那さま(9コ年下の28歳。職業はアイドル。風呂上がりにつき、全裸)だ。

「みっちゃん、大阪行くの?」
「大阪?」
「この日。カレンダーに書いてあるけど」

 と、諒くんが指差したのは、カレンダーの三月末のところ。

 福山くんから聞いた仕事の話をマネージャーに確認したら、ちょうど日程が決まったところだったみたいで、帰ってすぐにカレンダーにメモしておいたの。
 私と諒くんのスケジュールを書き込んでおくためのカレンダー。
 泊まりで数日、家を空ける予定のときはもちろん、日帰りでもちょっと遠出するときなんかは、こうして書くようにしてる。
 お土産で買ってきて欲しい物なんか、横に書き足しておいたりね。

 諒くんからリクエストされるお土産って、「何それ、ほんとにそんな物が存在するの?」と思わず言ってしまうくらい、やたらとマニアックな物ばかりなんだけど。
 ロケで行った取材先が偶然、そのリクエストの品を作ってる工場だったなんてことが、もう既に何度かあった。
 なんだか、諒くんと一緒に出掛けてるような錯覚に陥るのよね。

 結婚して、一緒に暮らすようになって、一ヶ月と少し。
 顔を合わせて話をする時間は、ハッキリ言ってそんなに長くないけど。
 このカレンダーのおかげで、いつもお互いの存在を感じていられる。
 ……と考えてるのは私だけじゃないと思いたいわ。

「そうそう、大阪。夕方の生放送なの。福山くんがレギュラーで出てるんだって」
「福山? ……って、誰?」
「プラタナスの福山くんよ。諒くんの中学の後輩なんでしょ?」
「あぁ、あの福山か」

 諒くんは(ようやく)パンツと部屋着の短パンをはいて、ベッドの脇に腰を下ろした。

「まさか、あんな形であいつと再会することになるとは思ってなかった。……あ、再会した訳じゃないのか。なんか変な感じだな」

 あんな形、っていうのはもちろん、あのクリスマスイブのこと。
 ほんとにたくさんの人たちを巻き込んで、迷惑かけて、世間をお騒がせしてしまった、諒くんと私。
 そのゴタゴタをうまいことフォローする形で現れたのが、福山くんだった。

 あの時、福山くんは私たちがいたスタジオとは違う場所からの中継という形での登場だったから、諒くんとは大きなモニター画面越しでの対面となってしまったのよね。
 会話はしたけど実際に会ったわけじゃないものだから、妙な感じがするっていうのも頷けるわ。

「福山に会ったら、よろしく伝えておいてね」
「『よろしく』って、何よ。具体的に何かないの?」
「ない」
「諒くんが会いたがってる、とか」
「別に、会いたい訳じゃないし」
「嫌いなの? 福山くんのこと」
「嫌いじゃないよ。単純に会う必要性がないだけ。昔の知り合いだからね、いま会ったところで、過去を懐かしんで終わりだよ」
「そういうものかしら」
「そういうものだよ。ま、何か用があれば向こうからコンタクトを取ってくるよ」

 言いながら、諒くんは私の耳たぶを甘噛みしてくる。
 なんでもない言葉も耳元でささやかれると、なぜだかセクシーに聞こえるから不思議だわ。

 首筋に諒くんの濡れた髪が触れて、ひやりと冷たい。

「……髪、乾かした方がいいんじゃない? 明日の朝、また寝グセで大変なことになるわよ」
「ん。そのうち乾くよ」

 私の肌に触れる諒くんの手は、濡れた髪の冷たさとは対照的に、湯たんぽみたいに温かい。

 ん……まぁ、こうなったら仕方ないわね。
 眠気も覚めちゃったし。明日の朝が早い訳でもないし。
 このまま、湯たんぽに身をゆだねてしまうことにするわ。

 ……あれ?
 私、何か大事なことを忘れてる気がする。

 さっき一瞬、思い出しかけたのよ。
 それなのに、諒くんのセクシーボイスに気を取られて、糸口をつかみ損ねたわ。

 何を話していたんだっけ?
 大阪……仕事……それから、福山くんの話になって。
 で、ええっと、用事があるとか、ないとか…………あっ!

「りょ、諒くん、待って!」
「待たない」
「待ってってば。ふ、福山くんから伝言があるの」
「伝言?」

 顔を上げた諒くんに、私は頷いて、

「『なんとかに気をつけて』」
「……みっちゃん、それ、伝言になってないよ。何に気をつければいいの?」
「そうよね、何だったかしら。えっと……あっ……ああっ!」
「僕、まだ何もしてないんだけど」
「違うわよ、ドスケベ! 思い出したのっ、伝言の内容!」
「もういいよ。どうせ、たいしたことじゃないし――」
「『トモに気をつけて』っ!」

 私の肌の上をすべる諒くんの手が、ピタッと止まった。

「……トモ?」
「うん」
「福山が言ったの? 『トモに気をつけろ』って?」
「語尾が違うわよ。『気をつけて』よ」
「トモって、何のトモとか言ってた?」
「ううん、何も言ってなかったわよ。諒くんに言えば分かるんだと思ってたけど……心当たりないの?」
「いや……」

 それっきり、諒くんは黙り込んでしまって。
 しばらくして、ふらりと寝室を出ていってしまったんだけど。
 結局、その夜は、私がぐっすり寝入ってしまうまで、諒くんは寝室には戻ってこなかった。

「僕だって、たまには地元の空気を吸いたくなることもあるんだよ」

 諒くんは鼻歌まじりに、人の行き交う駅のホームを軽い足取りで歩いていく。

 今日の諒くんは、丸一日オフ。つまり、仕事はお休みってことね。
 もう少し眠っていたかった私を早朝に叩き起こして、勝手に私の予定を変更して……で、現在(「どうして、ほんとに大阪までついて来ちゃったのよ?」)に至るというわけ。

 正直に言うとね、今日の諒くんの言動に関しては、半分くらいしか信じてない。

 だって、怪しいと思うじゃない。
 自分一人がオフだってときには、嬉々としてゲームの世界に没頭しちゃうような人が。
『地元の空気を吸いたい』なんて理由で、奥さん(もちろん、私のことよ)の出張にわざわざついてくるかしら。

 これは、私の推測なんだけど。
『トモに気をつけて』。
 福山くんのこの言葉が、諒くんの怪しい行動の引き金になってると思うの。

『トモ』っていうのは、きっと、諒くんの昔のカノジョ。
 今風に言うと、「元カノ」ってやつよね。
「トモミ」だとか「トモコ」だとか「トモエ」だとか、そういう『トモ』がつく名前なのよ。

 それで、その昔のカノジョ『トモ』が、諒くんに会いたがってるの。
 福山くんは芸人としての活動拠点が大阪にあるんだから、そういう情報が耳に入ってきても、不思議じゃないでしょ。

 だから福山くんは、私の大阪行きに不用意についてくるかもしれない諒くんに、メッセージを発信したんだわ。
「昔のカノジョの『トモ』が諒さんに会いたがってるから『気をつけて』」って。

 にも関わらず、諒くんがなぜ大阪までついてきたのか。

 これはもう、ズバリ、諒くんも会いたいからよ。
 その元カノってやつに。

『トモ』が僕に会いたがってる。
 僕も会いたい。昔愛したカノジョ、『トモ』に。
 行こう。カノジョが待ってる大阪へ――……。

 ……なんて。
 分かってるわよ。こんなの、推測でもなんでもない。
 妄想よ、妄想。ここまできたら、被害妄想よね。
 私の悪いクセだ。

 諒くんのこと、まるっきり信じてないわけじゃないのよ。
 新幹線の中で、私の肩に頭を預けて居眠りしちゃうあたり、やましいことなんて特に考えてなさそう……って。
 無防備な寝顔を、間近で見つめながら。

 でも、目的地の大阪が近づくにつれて、やっぱり不安になるわけよ。
 諒くんが大阪の元カノとやらに再会して、焼けぼっくいに火がついたりでもしたら。
 それでもって、激しく燃え上がっちゃったりでもしたら――。

「シワが寄ってる」

 諒くんは、私の眉間を指で押さえた。

「やめてよ。おでこがゾワゾワする」
「考え事しながら歩いてたら危ないよ。何か心配なことでもあるの?」
「……別に、何もないけど」
「ガスの元栓なら閉めてきたよ」
「ありがとう。それは私も確認したわ」
「戸締りも完璧だし、ゴミも出したし」

 そういうことじゃないのよ、と言おうとして。
 改めて、諒くんの顔に視線を向けてみる。

 髪に、ぴょんとハネた寝グセがついてるわ。
 妖気でも感知してるのかしら。
 アゴにはうっすらと無精ヒゲ。
 ハッキリ言って、だらしない。

 ある意味、究極の変装よね。
『Hinataの高橋諒』と同一人物だなんて、きっと誰も思わないわよ。
 こんな、清潔感のカケラもないような人。

 一応、諒くんの名誉のために言っておくけど、諒くんが不潔だってわけじゃないのよ。
 お風呂だって、歯磨きだって、お肌の手入れだって、ヘタしたら私の二倍三倍の時間をかけてるくらいなんだから。

 何が言いたいかって、こんなだらしなく見える格好で会いに行こうなんて考えるものかしら。
 昔カノジョだった人に……って。

「大丈夫だよ、僕がいるから。何も心配する必要ないでしょう?」
「……うん」
「老後のお世話も僕がするから心配な……だぁっ! いっ、痛い痛い痛いっ!」

 むぎゅ――――っと、諒くんの靴を思いっきり踏んづけてやった。

「何が『老後』よっ。そうやって、すぐ私のことを年寄り扱いするんだから」
「痛いって。冗談に決まってるでしょ? みっちゃんだって、そうやってすぐ怒る。またシワが増え……ぎゃあぁっ」

 みぞおちにパンチを追加。

「うぅ……家庭内暴力、反対」

 諒くんは私がパンチしたところをさすりながら、情けない声を出す。
 なんだか真剣に悩んでるのが馬鹿らしくなってきたわ。

 そうよ。諒くんの言うとおり、大丈夫よ。
 だって、諒くんなんだもの。

 きっと、私があれこれ妄想して不安にならなきゃいけないようなことじゃないのよ。

 私にくっついて大阪に来た理由も。
 福山くんからの伝言の意味も。

 諒くんって、いつも何を考えてるのかよく分からないけど。
 こっちが、頭やら胃やらキリキリ痛めて悩めば悩むほど、新喜劇ばりにズッコケたくなるようなオチだったりするんだから。

 ごめんなさいね、私のタチの悪い妄想につき合わせちゃって。
 あまりにも幸せすぎるものだから、ときどき、とてつもなく不安になるのよ。
 聞いてもらって、少し気が楽になったわ。
 これ以上ずっと暗い顔してたら、諒くんが心配しちゃうから、この話はこのくらいで終わりにさせてもらうわね。

「じゃあ、行くわよ、諒くん。KSテレビは、確かこっちよね?」

 私が、目的地へ向かう交通機関のある方向へ歩き出そうとすると、諒くんは私の腕をつかんだ。

「まだ現場に行くには早すぎるでしょ。それより、みっちゃんと一緒に行きたいところがあるんだ」
「私と一緒に行きたいところ?」

 私が聞くと諒くんは頷いて、

「僕の奥さんとして、みっちゃんがやらなきゃいけないことがあるでしょう? この大阪で」

 私がやらなきゃいけないこと?
 それも『諒くんの奥さん』として?
 ……全然、見当もつかないんだけど。

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