……大阪でやらなきゃいけないこと、あったわ。
諒くんは、『僕の奥さんとして』って言ったけど。
本来なら、奥さんになる前に済ませておかなきゃいけないことよね。
大阪(つまりは、諒くんの地元)に行くことが決まった時点で、気づくべきだったのよ。
仕事の関係先には、あちこち挨拶して回ったっていうのに、この場所は完全に盲点だったわ。
新大阪からKSテレビとは真逆の郊外方面に移動すること数十分。
『超デカイ板チョコみたい』と、奈々子ちゃん(諒くんの妹だから、私にとっては義理の妹になるのよね)が表現していた、玄関ドア。
諒くんが私の手を引いて、そのドアを開けようとしてるんだけど。
「実家に行くなら行くって、前もって言ってくれればいいじゃない。そしたら、もっとちゃんとした格好してきたのに」
「別に、変な格好じゃないよ」
「今日の諒くんよりはね、マトモな格好だとは思うわよ。でもね、さすがにジーパンはアウトでしょ」
「いまどきジーパンなんて言わないよ。デニムのパンツでしょ?」
「初対面なのよ、私。諒くんのご両親、結婚式にはいらっしゃらなかったじゃない」
「そうだね」
「諒くんはいいわよね。私の両親と会ったのは式のときだったんだから、キレイな衣装を着てたもの。初対面が今日のその格好だったら、いくら寛大なうちの両親でもいい顔しないわよ」
「でもさ、みっちゃんが持ってる服って、どれも似たり寄ったりだよね」
「あぁ……二、三日前にでも分かってたら、知り合いのスタイリストさんからスーツくらい借りてきたのに」
「職権乱用?」
「今からでも、どこかで買えないかしら。せめて、このジーパンだけでもなんとかしたいわ」
いつまでも私がぶーぶーと言い続けるものだから、諒くんは呆れ顔で私をなだめた。
「大丈夫だって。服装とか、そういうことを気にするような人たちじゃないよ。僕を育てた両親なんだから」
……ほんとに、大丈夫かしら?
色落ちが目立ち始めたジーパンをはいた失礼な嫁(まだ言ってる)を快く出迎えてくれたのは、白髪混じりの寝グセがぴょんとハネてる男性だった。
「やぁやぁ、いらっしゃい。初めまして、高橋です」
そりゃぁ、そうでしょうよ。
高橋姓を名乗る諒くんの実家へやってきて、出迎えてくれたのが佐藤さんや鈴木さんだったら、困惑してしまうわ。
……と、ツッコミ入れたくなった(芸人の悲しい性よね)けど。
同時に、さっきまでの得体の知れない緊張感がするっと解けて、思わずほっぺがゆるんでしまった。
だって、この男の人、諒くんがいつも家で愛用してる部屋着とまったく同じ服を着てる。
諒くんよりほんの少し背が高くて、いくぶん細身な印象を受けるのは、ムダな筋肉(諒くんにとってはハードな仕事をこなしていく上で必要なものよ)がついてないせいだと思う。
この人が、諒くんのお父さん。私の義理の父になるわけね。
自宅でスイッチを完全にオフにしてる諒くんにそっくり。
諒くんが私より9コも年下だから、ある程度の予想というか、心の準備はしてたけど。
「お義父さん」と呼ぶのを躊躇ってしまうくらい、若い。
ヘタしたら、私と諒くんとの年齢差よりも、私とお義父さんとの年齢差の方が小さかったりするんじゃないかしら。
実年齢をお聞きするのが、少し怖い。
だけど、そうね、諒くんだって、マイナス5歳くらいに見られることなんて、いつものことだし。
きっと、遺伝的に若く見えるんだろうってことにしておくわ。
「諒が女のコを連れて帰るなんて、初めてやから緊張するなぁ」
自分の父親に言われて、諒くんは少し照れくさそうに笑う。
「初めて? 諒くん、今までカノジョ連れてきたこととかないの?」
私が聞くと諒くんは頷いて、
「ないんだな、これが。東京からわざわざ大阪までってなると、気軽には連れて来られないよ。それなりの覚悟がないと」
「覚悟?」
「初めて両親に紹介する相手が既に奥さんになってるなんて、僕も、さすがに想像もしてなかった」
要するに、『結婚を意識した相手でないと』ってことよね。
それが、諒くんにとってはただ一人、私だったってことよね。
これはもう、素直に喜んじゃっていいわよね。
油断して浮かれた直後に、どん底に突き落とされるなんてことが、日常茶飯事な世界に身を置いているものだから、どんな些細なことも、つい何かウラがあるんじゃないかって疑ってしまうけど。
私と諒くんの結婚生活は、番組の企画なんかじゃないもの。
見たところ、怪しい人影も隠しカメラも、なさそうだもの。
愛する旦那さまの言葉を信じることにするわ。
初めてお邪魔させてもらったお宅をじろじろ見るなんてことは、あまりしたくないんだけど。
せっかくだから、諒くんの実家の様子を簡単に説明させてもらうわね。
まず、玄関を上がってすぐのところに、二階に向かう階段がある。
二階には、諒くんと奈々子ちゃんの部屋が、昔使っていたそのままの形で残してくれてあるんですって。
うらやましいわ。
私の実家の自分の部屋なんて、とっくの昔にキレイさっぱり片付けられちゃったもの。
階段の角度とか、廊下の狭さや天井の低さ……私の実家と共通するところがたくさんある。
きっと、同じ年代に建てられた家なのね。
一階の居間には、小振りなコタツ。
もちろん、お約束のみかんも置いてある。
もう3月も終わるけど、まだまだ朝晩は冷えることもあるのよ。
私と諒くんの暮らす家も、まだコタツが活躍してるわ。
実質的に活躍してるのは、コタツじゃなくてコタツ布団だけどね。電源は入れてないから。
……話がそれてきたわね。
何が言いたいかって、諒くんの実家はごくごく一般的で標準的な家庭だってことよ。
何を基準に『一般的で標準的』と判断するのかなんてツッコミは、この際なしの方向でお願いね。
とりあえず、ここへきて諒くんが実はものすごい資産家の跡取りなんて急展開になる気配は微塵もなくてホッとしたわ。
ただでさえ、年齢とか容姿とか、その他もろもろ引け目を感じてるっていうのに、身分違いなんて言われようものなら、私、泣いて謝るしかないもの。
「母さんは?」
家の中をぐるりと見回した諒くんが聞くと、お義父さんは、
「買い物。たぶん、カツラギ商店やないかな」
「なんでわざわざ……タバコならそこのコンビニでも買えるのに」
諒くんは、不満そうに文句を言う。
東京から嫁を連れて帰ってきた息子より、タバコの方が大事なのか、とでも言いたそう。
ほんとに諒くんがそう思ってるかどうかは分かんないわよ。
私が諒くんの立場だったら、きっとそう考えたに違いないって話。
ううん、もし自分の親が同じことしたら、文句どころかもっと派手にブチ切れてると思うわ。
「……ま、いいや。母さんを待ってる間に、みっちゃんに紹介したい女のコがいるんだけど」
いつものことながら、気持ちの切り替えが早いわね、諒くん。
なんてことは、どうだっていいのよ。
「女のコ?」
私が聞き返すと、諒くんは神妙な面持ちで頷く。
「実はね、今日はみっちゃんに、カノジョに会ってもらいたくて、大阪まで来たんだ」
「ど、どういうこと?」
「トモ!」
諒くんは家の隅々にまで届きそうな大きな声で、その名を呼んだ。
思いもよらない急展開。
よみがえる被害妄想。
まさかの、元カノ登場!?