諒くんが私に会わせたかった『トモ』の正体は、元カノなんかじゃなかった。
もちろん、奈々子ちゃんに続いてもう一人、妹がいるんだというオチでもない。
「このコがトモって言うんだ。昔、福山から譲ってもらったんだよ」
そう言って諒くんは、トモの背中を優しくなでた。
名前を呼ばれてコタツの中から出てきたトモは、ソファーに座る諒くんの膝の上を占領してる。
白と黒と茶色の毛が、なんともかわいらしい模様を描いている、三毛猫。
猫。
「……ネコ!?」
「そう。ネコ」
諒くんは淡々と言葉を返す。
「福山の家で生まれた子猫を見に行ったら、あまりにかわいくてね、両親にも無理を言って、飼うことを許してもらったんだ。中学三年で上京しなきゃならなかったから、僕が世話を出来たのは、せいぜい一年くらいだけど」
「じゃぁ、福山くんが言ってた『トモに気をつけて』っていうのは……」
「トモも、もうおばあちゃんだからね、心配してくれたんだと思うよ。福山のとこにもトモの兄弟がいるから、もしかしたら、元気のないコがいるのかもしれない。だから、『気をつけて』なんじゃないかな」
にゃあう。にゃうにゃう。
トモは諒くんの話にときどき相槌を打つように声を出す。
こんなによくしゃべるネコ、初めて見たわ。
「それにしても、福山くんの伝言が実家のネコのことなんだって、どうして黙ってたの? 私、『トモ』っていったい何なのかしらって、ずっと、ぐるぐるぐるぐる考えてたんだから」
「昔のカノジョか何かだと思った?」
いきなり大正解。
「な、なんで分かるのよ。私の頭から漫画みたいにフキダシでも出てたの!?」
「だってさ、ずっと暗い顔してたでしょ。新幹線の中でも全然しゃべらないし」
「それは諒くんが寝てたからでしょう?」
「起きてたよ、ずっと。僕が話しかけてもみっちゃんが上の空だったから、つまらなくて目を閉じてただけ。『ああ、またくだらないことを考えてるな』って思いながらね」
「くだらないって、何よ」
「くだらないでしょ。おおかた、僕が大阪までついてきた理由も、『昔のカノジョに会いにいくんだわ』とでも考えてたんだろうし」
再び、大正解。
「だって、諒くんが何も言ってくれないんだもの。不安になるじゃない」
「本当に、僕はみっちゃんから信用されてないんだね」
そうじゃないんだってば、と反論しようとして。
諒くんの表情を見て、私、唖然としてしまった。
自分を信じてもらえないことに傷ついてるようでもなく。
疑り深い私に対して、腹を立ててるでもなく。
何やら面白そうに、笑ってる。
「いやいや、こんなに筋書き通りに反応してくれるなんて、さすがみっちゃんだね」
……やられた、と思ったわ。
諒くんは、ワザと曖昧にしてたのよ。
私にくっついて大阪に来た理由も。
福山くんからの伝言の意味も。
そうして、自分が仕向けた通りに、私がぐるぐると被害妄想しているのを見て、楽しんでたってわけ。
私、諒くんを軽く睨みつけて、言ってやった。
「諒くんって性格悪いわよね。それとも、悪趣味って言うのかしら?」
「どっちでもないよ。これが僕の個性だから」
開き直ったわね。
まぁ、『トモ = 元カノ疑惑』が晴れたわけだから、良しとするわ。
こんなことでいちいち腹を立ててたら、諒くんの嫁も、芸人も、務まらないもの。
毎日が『ドッキリ』なんて、むしろオイシイじゃない。
カメラが回ってないってことが、惜しいくらいよ。
……なんて、自分に言い聞かせていると、
「諒、もう帰ってたのか。待たせてすまんな」
玄関の方から声。
「母さんだ」
諒くんとお義父さんが同時に声を上げた。
逃げ出そうかと思った。
高橋家とはおおよそ無縁の人物だとしか思えなかったの。
腰までまっすぐに伸びた、漆黒の髪。
サイズを間違えたとしか思えない、ダボダボのスウェット。
タバコをくわえて私を睨みつける目の上にあるはずの、眉がない。
眉がない!
「わあぁああっ!! ごめんなさい! ごめんなさい! なんかもう、よく分かんないけど、すみませんっ!」
「なんだ、いきなり。騒々しいムスメだな」
眉なし女は、眉間(と思われる部分)にしわを寄せる。
「母さんの眉がないから怖がってるんやって。どこから見てもヤンキーや」
と、諒くんが言うと、
「あ? タバコ買いに行くのに、眉なんか要らんだろ」
確かに、眉がなくてもタバコは買えますけど。
「みっちゃん、改めて紹介するよ。僕の父さんと母さん。父さんは建築関係の仕事をしてる。母さんは……まぁ、見た目はこんなだけど、普通の主婦だから」
「なんか引っかかる言い方だな、諒」
眉なし女……もとい、諒くんのお母さんは、白い煙を吐き出して笑う。
明らかに想定の範囲外よ。
諒くんも奈々子ちゃんも、ちょっと生意気だったり意地悪だったり、性格に少々難アリなところはあるけど、普段はわりとホンワリしてるもの。
お義父さんも、さっき初めてお会いしたけど、二人の父親だなあって感じで、違和感ゼロだもの。
それが、こんな……失礼を承知で言わせてもらうけど、エプロンよりも特攻服が似合いそうな人が、諒くんのお母さんだなんて。
ハッキリ言って、おもしろ過ぎるわ。
「じゃ、挨拶も済んだことだし」
突然、諒くんがソファーから腰を上げた。
膝の上に座っていたトモは、居間から出て行こうとする諒くんの後を追う。
「ちょっと待ってよ。ご両親に対して私のことは紹介しないの?」
「紹介する必要ないでしょ。二人とも、道坂さんのこと知ってるよね?」
お義父さんもお義母さんも、うなずく。
「いやいやいやいや、そうだとしても、なんか、こう、あるでしょう? 『この人が僕のお嫁さんです』とかなんとか……って、ちょっと、諒くんってば待ちなさいよ!」
私の話をまったく聞かずに、諒くんは自分の部屋があるという二階へと上がっていってしまった。
「まったく、気が利かない息子で申し訳ない」
お義父さんが詫びる。
「初対面なのに諒がいなくなったら、道坂さんもどうしたらいいか分からんよね」
お義父さんのおっしゃる通り。
私、こう見えて人見知りが激しいのよ。ほんとよ。
諒くんも、それを知ってるはずなのに、この状況で私を置き去りにするなんて。
「まぁ、そんなにカリカリするな」
と、お義母さん。
「あいつの気が利かんのは昔からだ。今さら悩んでも、どうにもならん。諒がいなくて会話に困るなら、茶でも飲んでいればいいだろう」
そう言ってお義母さんは、私に紅茶を勧めた。
真っ白なティーカップから、ほんのり甘酸っぱい香り。
「……わ、美味しい」
「そうだろ?」
「イチゴとかラズベリーみたいな……なんだろう、そっち系の味がする」
「フレーバーティーだからな。好みは分かれるところかもしれんが」
「私は好き。紅茶と果物を同時にいただいてるみたいで、得した気分。わぁ、ほんとに美味しい」
お義母さんは私の言葉を聞いて、穏やかに微笑んだ。
「この家では、そうやって肩の力を抜けばいい。おまえらは、どこで誰に見られてるか分からんような生活をしてるんだから、ワタシらにまで気を遣う必要はない。ジーパンでもジャージでも、なんだったらパジャマで来ても構わん」
「スーツなんかで来られても困るって言えばええのに。自分はスウェットと特攻服しか持ってへんって……いででっ!」
お義父さんは引っ張られた耳をさすりながら、
「大丈夫。何があっても、この家には怪しい人間もテレビカメラも入れさせないよ。諒や奈々子だって、こんな暴走族の総長みたいなのが母親だなんて世間に知られたくな……うぐっ!」
……なんというか。
諒くんを育てたご両親って感じ。
常識やマナーをそこそこ重んじる家庭で育った私としては、戸惑う部分もあるけど。
ここはひとつ、お言葉に甘えちゃうことにするわ。
さすがに、パジャマでおじゃましようとは思わないけどね。
二杯目の紅茶とクッキーを三枚いただいたところで、ようやく。
諒くんが二階から下りてきて、毎度のことながら、意表を突く言葉を私に掛けた。
「さて、みっちゃん、そろそろ行こうよ」
「いきなり急かさないでよ。待ってたのはこっちなん……ちょっと諒くん、何よ、その格好?」
さっきまでの、だらしない普段着スタイルから一変。
絶対にどこかお高いブランドのものよね、って分かるようなジャケット。
絶対にどこかお高いブランドのものよね、って分かるようなシャツ。
絶対にどこかお高いブランドのものよね、って分かるようなズボン……じゃなくて、パンツ。
プライベートでは滅多に着けないブレスレットやらネックレスやら、あれやこれや。
雑誌か何かから、ひょいっと抜け出してきたみたいな、完璧なコーディネート。
「この間、雑誌の撮影で着たんだよ。スタイリストさんに無理を言ってレンタルして、実家に送っておいたんだ」
「何よ、職権乱用じゃない。自分ばかりそんなの準備してきちゃって、ズルいわ」
「今日発売の雑誌なんだ。しかも、僕が単独で表紙だよ」
「そんなこと聞いてないし。あっ、寝グセも直ってる」
「うん。今日の寝グセもかなり頑固だった」
「よく見たらメイクもしてるじゃない。完全にアイドル仕様よね」
「お花見しようよ。そこの公園の桜、この近辺では結構有名なんだ」
「嫌よ。諒くんがそんなにアイドルのオーラ放ってたんじゃ、目立ってしょうがないじゃない」
……って言ってるのにもかかわらず。
諒くんは私を無理やり立たせて、玄関へと引っ張っていく。
私の意見なんて、最初から聞き入れるつもりなんかまったくないのよね。
いつものことだけど。
「また、いつでも遊びにおいで。今度はゆっくり時間のあるときに」
お義父さんの優しい言葉を背中に、玄関でバタバタと靴を履いていると、
「諒、気をつけろ」
お義母さんが厳しい表情で、諒くんに忠告する。
「迷うな。一瞬でも揺らぐと全てを失うことになりかねんぞ」
「分かってるよ」
関西のイントネーションで返した諒くんは、小さくうなずいた。
ん? ……とは思ったのよ。
うなずいてみせる諒くんの表情が、あまりにも真剣そのものだったから。
何か、心当たりでもあるのかしら。
『一瞬でも揺らぐと全てを失うことになりかねない』ようなこと……?
すぐに諒くんに聞いてみればよかったのかもしれないけど。
ご存じのとおり、私、大事なことほど忘れちゃうものだから。
次の瞬間にはもう、疑問に思ったことさえ頭から消え去ってたわ。
……まぁ、諒くんに問い詰めてみたところで、きっと何も答えてはくれなかったと思うけど。