09 道頓堀 2

 辺りを警戒しながら、僕はビルの裏口から外に出た。
 細い通路を、表通りへ向かって進む。
 視界が悪い。何度もつまづきそうになる。
 焦るな。落ち着け。言い聞かせる分だけ、余計に気持ちが急いてくる。

『迷うな。一瞬でも揺らぐと全てを失うことになりかねんぞ』

 母の忠告が脳裏をかすめる。

 分かってる。
 これから僕は、危険な橋を渡る。

 ふと思い立って、野球帽のつばをあえて後ろに回して被り直した。
 思い切って顔を見せてしまった方が、かえって怪しまれずにすむ。
 ほんの少しの間だけ、僕が『僕』だと気付かれなければそれでいい。
 危険な橋を渡り終える、その瞬間まで。

 何食わぬ顔で表通りへ出て、さっき自分が入っていったビルの正面に回った。
 そこでは、女性が一人、壁面に貼られたポスターを真剣な表情で見つめている。

 一目で分かった。十年以上経っていても。

 昔と違って、髪が短い。背丈も僕より幾分高くなっている。
 けれども、どんなカリスマモデルや売れっ子女優にも引けを取らないその目鼻立ちは相変わらずで、見慣れた誰かさんの顔を思い浮かべて比較してしまっている自分に気付いて苦笑した。

 絶世の美女も、究極のブサイクも、見慣れてしまえばただの人。
 カツラギのおじさんもウマイこと言う。

 少しだけ、不満げな顔をしていた。その表情を思い出して、僕は腹を据えた。
 自分の行為が正しいのか間違っているのか、そんなことはもはやどうだっていい。
 迷わない。揺るがない。
 全てを失うなんてヘマは絶対にしない。

「お待たせ」

 僕が声をかけると、振り向いた女性は不思議そうに小首を傾げた。
 僕が誰なのか、気付いていない。

「十何年ぶりかな。しばらく見ない間に、また一段と綺麗になったね、――とも子」

 この言葉で、どうやら思い当たったらしい。
 カノジョは目の前にいる僕の顔と、それまで見つめていた壁のポスターを、交互に見やった。

 ポスターの中で微笑んでポーズを決めているのは『僕』だ。
 結構値の張る車が余裕で買えてしまうくらいの高級なブランド服を、衣装として身につけている。

 有名なデザイナーが立ち上げた新しいブランドで、このビルの一階に大きなショップを構えているものだから、宣伝のためのポスターがあっちにもこっちにも、そこにも、ここにも。
 ビルのてっぺんには巨大な看板まであるっていうんだから、その宣伝効果は相当なものだろうけど、いまの僕にとっては迷惑なものでしかない。

「場所を変えよう。ここではさすがに目立つ。歩きながら話すから、とりあえずついてきて」

 一方的に宣言して、僕は街の中心部の方へと足を向けた。

 立場が逆転してしまったな……と、カノジョ――とも子が僕の指示通りについてくる気配を背中で感じながら思った。

 昔は、僕がとも子の背中を見ていた。
 行きたい場所も、何をするのかも、ほとんどとも子が一方的に決めていた。
 僕はいつもそれに従っていた。
 後ろからついていって、時々少しだけ振り返って視界の端で僕の存在を確認するとも子を見つめていた。
 そこに潜む不安の根の深さも、またそれを根こそぎ引っこ抜いてやれない自分の幼さも、口惜しいくらいに痛感しながら。

 当時とも子がしていたように少しだけ振り返って、視界の端でとも子の存在を確認する。と、

「……ダサい格好」

 短く、それでいて容赦ない酷評に、僕は思わずよろけてしまった。
 十何年ぶりに再会した元カノの第一声が、言うに事欠いて『ダサい格好』だなんて、いくらなんでも、

「ちょっとそれはないんじゃないかな」

 軽く睨みつけて抗議してみるが、無駄だった。

「ダサすぎる。信じられない。そんな格好で街中を歩けるなんて、その神経が理解できない」
「野球のユニフォームシャツだよ。阪神タイガース。大阪ではスタンダードでしょ?」
「全然、似合わない」
「分かってるよ、そんなこと」
「さっき着てた服はどうしたの? 高そうなブランドの服。あれくらい着ててくれなきゃ、並んで歩きたくない」
「無茶言わないでよ。とも子と一緒に歩くために、わざわざ着替えたんだから」

 とも子は怪訝な顔をした。

「どういう意味? わたしと一緒に、って……たったいま、偶然会ったばかりじゃない」
「偶然? じゃあ、どうして僕がさっきまで着てた服のことが分かるの? 『あれくらい着ててくれなきゃ、並んで歩きたくない』って言ったよね」
「……それは、あれよ。あのポスターで着てた服のことよ」

 苦し紛れの言い訳だ。
 分かってはいるけど、あまり追及して機嫌を損ねられても困る。
 僕はあえて、全く別の方向へ話を振った。

「知ってる? 僕、結婚したんだ」

 とも子の足が止まる。
 しばらくの沈黙の後、とも子は慎重に言葉を探りながら口を開いた。

「……知らなかった。諒のことだから、きっと相手はとても綺麗な女優さんなんでしょうね」

 見え透いた嘘を。――まあいい。

「とにかく、あの格好だと、どこからどう見ても僕の正体がバレる。新婚早々、昔のカノジョと会ってたなんて世間に知れたら、僕は全てを失う。いろんな人に迷惑をかける。それじゃあ困るんだ」
「じゃあ、わたしと会うために、わざわざ変装したってこと?」
「そういうことになるね」

 こちらの胸の内を覚られないよう、平静を装う。
 迷うものか。揺らぐものか。

 僕はとも子の前に、手を差し出した。

「行こう。あまり長居はできない。貴重な時間なんだ、有効に使いたい」

 僕の手を目の前にして、とも子は戸惑う素振りを見せた。
 出しかけて、ぎりぎりのところで迷って、引っ込める。

 その手を、僕は強引に掴んだ。

 嫌がる気配はない。
 戸惑って見せたのは、単に状況を飲み込むのに時間がかかっただけだろう。
 僕が歩調を早めれば、とも子は難なくそれに合わせてついてくる。

 時間を共有したいという心は同じだ。同じはずだ。
 そうでなければ、あのビルの前でとも子がポスターの中の『僕』を見つめている訳がない。

 それでも、

「……行くって、どこへ?」

 困惑気味の表情で、とも子は問いを投げた。
 行き先に不安を感じているわけじゃない。
 行き先を知らされていないことが――主導権を僕に握られているのが心地悪いだけだ。

 そんなこと、僕の知ったことではない。
 けれども、機嫌よくいてもらうに越したことはない。
 具体的な場所は告げずに、機嫌を取れる言葉は用意してある。

「二人っきりになれる場所」

 僕はとも子の耳元で、いかにも意味ありげな感じたっぷりに囁いてみせた。

 ****

 隣を歩く道坂さんは、無表情や。
 機嫌が悪い、ということやない。むしろ逆や。

 不安に思う要素がない。
 いい意味で何も考えてない。
 せやから、表情もない。
 後輩芸人であるボクに対して気を遣う必要もない、ということなんやろう。
 警戒心もない。
 ないないづくし。なんっちゅうか、ちょっとばかり寂しくなってくる。

「……信用してるんですね、諒さんのこと」

 ほとんど独り言のつもりで呟いただけやったけど、その呟きを拾った道坂さんは軽く首を傾げて、

「どうかしら。信用してるっていうより、諦めに近いかもしれないわね」
「諦め?」
「そう。あのコ、頑固でしょ。私が何を言ったって、一度決めたことはそう簡単には変えないの。私の意見で予定が覆されるなんてね、せいぜい鍋に入れる具材くらいのもんよ」
「鍋の具材……ですか」

 愚痴の中にさりげなくオノロケをねじ込んでくる。
 本人はノロケている気は毛頭ないんやろうけど。

「さっきだって、私が諒くんについて行くか行かないか、のニ択だったじゃない。『自分が食べに出かける』のを取り下げるつもりはない訳よ。私はこれから仕事だもの。一緒に行けないことは分かり切ってるじゃない。実質、一択よ」

 何か食べてくるから、という諒さんの言葉が真実であることが前提の、道坂さんのこのくだり。
 要するに、信用してるっちゅうことや。

 ……もし、諒さんが元カノと会うてたら、どうします?

 意地悪な質問が喉元まで出掛かったのを、ぎりぎりで飲み込んだ。

 不安にさせてどうすんねん。
 不安になるのはボクだけでええねん。
 その可能性を完全否定でけへん、ボクだけで。

 とにかく、元カノのことは……いや、諒さんの中学時代の話は全部、NGワードや。
 と、ボクが決意を固めたところで、

「ねえ、福山くんと諒くんって、部活は何だったの?」
「ぶ、部活?」
「同じ部活だったって聞いたけど。中学時代」

 無自覚で強引にNGワードへと誘導するからタチが悪い。
 いや、しゃーないことやって分かってるけど。分かってるけども。

 しかし、弱った。
 本当のこと(帰宅部でしかもヤンキー)は口が裂けても言えへんし、できるだけ、諒さんのイメージに近い部活といえば……、あ、そうや、あれや。

「け、剣道部、でした」
「……剣道? なんか、あんまりピンとこないわね」
「ええっ? もしかして、『KENDOUSケンドウズ』観てへんのですかっ?」
「ケンドウズ……?」
「あの、筋金入りの不良少年が、剣道を通して更正していくっていう……」
「あぁ、あの何年か前に流行ったドラマね。観てたわよ。指導者役の土方達郎ひじかた たつろうさんがもうカッコ良くて……えっ、まさか、あのドラマに諒くん出てたのっ?」
「がっつり主役でしたけど」
「うそぉ。全然知らなかった。土方さんしか眼中になかったんだわ、私」

 このドラマがきっかけで、諒さんが俳優として大ブレイクしたって言われてんのに。
 ……いや、確かに、土方達郎は渋くてカッコ良かったけど。カッコ良かったけれども。

「でも……そっか。あのときはあんまり興味なかった主役のコが、今では誰もが知るトップスター。しかも私の旦那さんなのね」

 道坂さんは、交差点の向こう側に建つビルに設置されている巨大な看板を見上げた。

 諒さんだった。
 高級ブランドの服を着て決めてるポーズは、男のボクから見てもセクシーやと思う。
 同世代やちょっと若い世代のコが自分もこんな服が似合うような男になりたいと思わせる、そんな感じの写真が、でかでかと掲げられてる。

 個人的な疑問としては、そんな高級ブランドが、なんでこの大阪の道頓堀に一号店を出すねんって話。
 東京の六本木だとか、関西やったら神戸とか、そんなとこなら分かるけど、なんで『食いだおれ』道頓堀に? って思うやんか。
 ……いや、別に全然ええけど、たこ焼きソースの匂いが服に染み着いてまうかも分からんで?

「普段は量販店のシンプルな服ばかりなのにね、あのコ」

 道坂さんはほんの少しだけ表情をゆるめて呟く。

 はぁ、またオノロケですか。そうですか。
 ほんまに、諒さんは何をやってんねん。
 道坂さんがこうして誰かのことを幸せそうに語るなんて……諒さんしかおらんねん。
 諒さんのことだから、いつもよりちょっとだけニコニコしてんねん。

 それやのに、まさか……まさかとは思うけど。
 元カノと――とも子さんと会うてたりとか、してませんよね……?

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