10 シティーホテル

 シティーホテルに入る。
 偽名を使って取った部屋に足を踏み入れると、僕はまずカーテンを全て閉め切った。
 とも子はとも子で、さっさとバスルームへ向かおうとする。
 ああ、慣れてるんだなと内心で考えつつ、僕はとも子を引き留めた。

「必要ない。あまり時間がないんだ」

 その言葉にとも子は微笑を浮かべて、

「知らなかった。諒って意外と肉食系なのね」

 答える代わりに、僕は笑顔で返した。
 とも子に笑顔を見せるのは、たぶんきっとこれが最後だ。

 首にとも子の腕が絡む。
 僕はそれを無視して、部屋に鎮座しているダブルベッドに、――背負っていたバックパックの中身をぶちまけた。

 とも子の顔から、微笑が消える。

「……何、これ」

 とも子は怪訝そうに眉を寄せた。
 ――とぼけやがって。

「それはこっちが聞きたい。どういうつもりでこんな手紙を、しかも大量に送りつけたんだ? ――道坂さんに」

 嫌がらせの手紙だった。
 彼女の所属する事務所から預かったものだ。
 バックパックからぶちまけた分だけで、50通近くある。
 事務所の方には、同一人物から送られてきたと推測される封書が段ボール箱に詰め込まれて山積みにされていた。

『トモに気をつけて』

 福山から、彼女を経由して受け取った伝言。
 実家に預けたままになっているネコのことではないとすぐに気づいた。

 とも子が――中学時代のカノジョが、なにか不穏な動きをしているということを伝えたいのだと。
 彼女にいらぬ心配をさせないよう、わざわざ直接的な表現を避けて、ネコのトモを案じている風を装ったことも。

 ……まさか、彼女が今日までトモと対面したことがなかったなんて、思っても見なかっただろうけどね。
 きっと、今頃気づいて、冷や汗ものなんじゃないかな。

 そんな訳で、福山からの伝言を聞いてすぐに、あちこちのいろんな方面に、あの手この手で探りを入れたところ、この嫌がらせの手紙に行き着いた。

 触れたときの僅かな感覚――まるで怨念か何かのように封筒から感じ取った光は、中学生だった僕がとも子に触れたときに見ていたものと同じで、
 ……それでも、封を開けて中身を見るまでは、疑いたくなかった。信じたかった。
 この迷惑な手紙の山の差出人が、僕とは直接関係のない、不特定多数の人間の手によるものだと思いたかった。

 とも子がこの手紙を送った証拠なんて、

「わたしが送った証拠なんて、どこにもないじゃない」

 ベッドにばらまかれた封筒を眺めて、強気な発言。

 僕だって、そう願ってた。
 証拠さえなければ、無関係で済ませられる。
 ごく一部の熱狂的で非常識なファンのしたこと――それで片づけることができたなら、どんなに気が楽だったか。

 けれども、僕の願いもむなしく、肝心の封筒の中身は、

「証拠だらけだよ」

 一番手近にあった開封済みの封筒の中から、便せんを取り出して広げて見せた。

「僕とつき合ってた頃のことをあれもこれも並べ立てて、おまけに昔二人で撮った写真まで同封するなんて、とも子にしかできない」
「……誰か、他の人が送った可能性だってあるんじゃないの?」
「他の人って、誰だよ。僕たちと接点があった人なんて、せいぜい福山くらいしかいないでしょう」
「じゃあ……」
「言っておくけど、あいつじゃないよ。断言する。こんな馬鹿げたことに時間を割けるほどヒマじゃないはずだ。動機もない」

 僕から視線を逸らしたとも子は、唇をかんだ。
 もう言い訳も思いつかないようだが、自分の非を認めて謝罪する気もないらしい。
 もっとも、僕に謝ってもらっても意味のないことだけど。

「僕を恨むのは自由だよ。それだけ酷いことをしたっていう自覚はある。だから、矛先は道坂さんじゃなくて僕に向ければいい。とも子と別れたことと、彼女との結婚は、完全に無関係だ」

 うなだれるとも子の頭に、そっと手を乗せた。

 限りなく黒に近い青。
 深くて暗い海の底で生まれ育った人魚姫だ。
 暖かい太陽の存在にあこがれて、海上の世界を目指して必死に泳いで、もがいて……。
 そんなとも子を、僕は――あのときの僕は見捨てた。
 海の上まで連れて行ってやれる力なんてなかった。

 今の僕だったら――。

「さよなら、とも子」

 僕は打ちひしがれるとも子を置いて、ホテルの部屋を出ることを決めた。
 今の僕にどんな力があろうとも、それはとも子の為に使うものじゃない。

 僕には守るべき人がいる。
 守るべき人を守るために、今、この場所にいる。
 目的を見失って迷うとか揺らぐとか、たとえ天変地異が起きたってあり得ない。

「……待って、諒」
「待たない」

 バックパックを背負い直す。
 ぶちまけた中身はわざわざ回収する必要もないだろう。
 勢い余って一緒に飛び出たケータイだけ拾って、ユニフォームシャツの胸ポケットにしまう。

 早く出よう。早く彼女の元へ戻ろう。

 それしか頭になかった。油断した。
 部屋を出てしまいさえすれば、全ては完璧……のはずだった。

「あいつ、今ごろ、諒のことを裏切ってるんじゃない?」

 意味が分からず、思わず足を止めてしまった。
 その一瞬に、とも子は好機到来とばかりにまくし立てる。

「福山よ。今、あなたの奥さんと一緒にいるんでしょう? 諒がいないのをいいことに、道坂靖子に手を出そうとしてるんじゃないの?」

 なにを言い出すかと思ったら。くだらない。

「あいつはそんなヤツじゃないよ。頼りないところもあるけど、信頼できる人間だ」
「そうかしら。忘れたの?」

 ふふんっと、とも子はせせら笑う。

「前科があるじゃない。諒がデビューするからって東京へ行ったとき、福山はわたしのこと口説いてたのよ。諒も見てたでしょう?」

 ……そうだ。思い出した。

 デビューが決まって、東京で慌ただしく過ごしていたある日。
 慣れない環境で疲労困憊の直くんが体調を崩したってことで、僕も一日休みをもらって、大阪に戻ったんだ。

 とも子に会いたかった。会って、説得しようと思ってた。
 しばらく会えなくなる。だけど、いつか必ず迎えにくる。
 何年先になるか分からないけど、それまで信じて待っていてほしい、と。

 それなのに、大阪に戻った僕が見た光景は――あぁ、嫌だ。これ以上、思い出したくない。

「あいつ、わたしのことが好きだって言ってたわ」
「……やめてくれ」
「諒はもう大阪には戻ってこないから、自分とつき合えって」
「やめろって言ってるだろ! 聞きたくない!」

 叫んだ声で、自分が動揺してることに初めて気づいた。
 ……この僕が、動揺? そんな、まさか。

「諒だってしたかったんじゃないの? ……今ならできる。ねぇ、そう思わない?」

 あのとき見た光景と同じ。
 閉め切った部屋に申し分ない寝具。

 ――いや、迷ってなんかいない。揺らいでなんか――。

「繰り返すのよ、何事も。一度裏切ったヤツは何度でも裏切るわ。100%信頼できる人間なんてね、地球上どこを探してもいないの。そうでしょ?」
「そ、んなこと……」

 詭弁だ、とは言えなかった。
 とも子からしてみれば、信頼できない人間の最たるは、この僕だ。
 太陽の存在を信じさせておきながら、海面まで引き上げてやるどころか、再び暗くて深い海の底へと沈めた。
 その罪は重い。

「相手してよ。離婚してとか、戻ってきてとか、そんな無茶なこと言わない。今だけ、わたしの相手になってくれたらそれでいいの」

 許してあげるから。
 矛先を自分に向けていいって言ったのは諒でしょ?
 
 耳元で囁かれたその言葉は、僕の身体の自由を奪う。

 彼女への嫌がらせが止まるなら。
 あのときの罪をなかったことにできるなら――。

 促されるままに、ベッドの端に腰を下ろす。
 さっきぶちまけてそのままになっている嫌がらせの手紙も、視界に入らない。
 
 似合わない野球帽を外す。
 背負っていたバックパックも荒っぽく放り投げようとして、

 自制が利くのはここまでだ、と覚った。

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