道坂さんが、バタバタとボク(正確には『プラタナス』)の楽屋を出ていった後。
戻ってくる気配がないのを確認した諒さんは、半開きになってるドアを確実に閉めて、自分が差し入れとして持ってきたケーキの箱を開けた。
「自宅にも送る手配はしたけどね」
諒さんはプリンを取り出しながら、そう言って笑う。
どんだけプリン好きやねん。
ボクにも一つ、勧めてくれる。
ここはありがたく頂いておくことにするけど、
「……嘘、言いましたよね」
我慢できずに、ボクは口を開いた。
さっきは道坂さんの手前、黙っていたけど、
「とも子さんを知らんとか、つき合ってた人は同じ中学やないとか、なんでそんな嘘を言うんですか。嘘やったって後で道坂さんが知ったら、絶対に怒りますよ!」
「分かってるよ」
諒さんは顔色ひとつ変えずに、プリンを口に運ぶ。
「あの場で『知ってる』って言ったら、徳川くんの方が黙ってないやろ。連絡先知りたいとか言うてたし。そもそも、なんで徳川くんがとも子のこと知ってんねん」
「それは……その、いろいろありまして」
事の経緯をざっくりと説明する。
とも子さんに待ち伏せされたこととか、徳川も交えて一緒に飲みに行く羽目になったこととか。
「で、とも子さんと徳川が……」
言い淀むと、察した諒さんはその先を手振りで制した。
「そんなところやろな、とは思った。いかにも食いつきそうやもんな」
それは、やっぱり徳川の方が?
「……あ、もちろん、とも子が、だ。徳川くん、イケメンやし、大阪ではかなり知名度もあるんやろ? とも子がスルーするはずがない」
口に出して言ったつもりはなかったけど、どうやら表情に出てしもうたらしい。
『徳川=女好き』の図式は、世間ではもはや定説になってるとはいえ、事実ではないのに決めつけられるのは相方として不本意や。
道坂さんも(当の徳川本人でさえも)定説を支持する事態なだけに、諒さんのフォローが身にしみる。
「……諒さん、一生ついていきます」
「はぁ? なんや、急に。気持ち悪い」
苦笑った諒さんはジャケットを脱いで、無造作にイスに引っかけた。
高級ブランド服やのに扱いがテキトー過ぎる。
そのとき、ふと、頭の中で何かが弾けた。
諒さんがこの楽屋に入ってきたときから、妙な違和感があったんや。
その正体が分からんかったから口には出さへんかったけど、いまようやく分かった。
前言(『一生ついていきます』)を撤回せなならんかもしれんほどの、重大な発見や。
「……これ、さっき着てたヤツと違いますよね?」
ボクは諒さんがイスに引っかけたジャケットを手に取った。
道頓堀のマクデンバーガーの前で久々の再会を果たしたときに諒さんが着てたものとは、素材とデザインが微妙に違う。
控えめに入っていたはずのラインがなくなってたり、襟の幅が少しシャープになってたり、ほんまにちょこっとずつの違いなんやけど。
「なんで違うジャケットなんですか? 差し入れ以外は手ぶらやし、もう一枚持ってるって訳やないですよね?」
まさか、とは思うけど……もう導き出せる答えはこれしかない。
「道頓堀にある、このブランドの店で、変装するために着替えたんとちゃいますか? ……阪神タイガースのシャツに」
ボクの推理を冷静に聞いていた諒さんは、目を見開いた。
「……なんでシャツのことまで分かるんや?」
なんちゅうこっちゃ。
――黒やった。
まさかと言うべきか、やっぱりと言うべきか。
ボクの『第六感』は正しかった。
「徳川が偶然、見たそうです。とも子さんが、タイガースのユニフォームシャツ着てる男とシティーホテルに入るところを」
諒さんは顔をしかめた。――決定的や。
「幸い、とも子さんと一緒にいた男が諒さんやってことまでは、徳川は気づかへんかったようですけど」
けれど……大事なことは、そこやない。
「諒さんが道坂さんを裏切るなんて。しかも、よりによって相手がとも子さんだなんて。ボクが何のために伝言お願いしたと思ってるんですかっ。こんなことなら、伝言とかするんやなかった。いや、いっそあのとき、二人が結婚せえへんよう仕向けてやればよかった!」
「……福山、おまえ、何か勘違いしてないか?」
諒さんは呆れた様子でボクを見よる。
勘違いって、なんやねん。
「確かに、僕はとも子に会った。変装もした。新しいブランドのイメージキャラクターであることを利用して、デザイナーさんにお願いして道頓堀の店で着替えさせてもらった。あらかじめ用意しておいた阪神タイガースのシャツにね。シティーホテルにも行った」
「行ったんやないですか」
「行った。そこまでは、おまえの言うとおりや。でも、おまえが考えてるようなやましいことなんて、何も……」
何もない、と断言してくれるのかと思いきや、諒さんはばつの悪そうな顔で、深くため息をついた。
「何もなかったなんて、自分の意志だけじゃ言えなかったかもしれないな」
と言って、イスに無造作にかけたジャケットのポケットからケータイを取り出して、テーブルに置いた。
「このケータイが鳴るのがあと3秒遅かったら、きっと取り返しのつかないことになってた」
諒さんのその表情と言いぶりから察するに、どうやら、絶妙なタイミングでこのケータイが鳴ったことで、道坂さんを裏切るような事態を避けられたということらしい。
と、言うことは、差し入れを両手で抱えていたから出られなかったというのは、少なくとも最初の着信に関しては嘘っちゅうことや。
ケータイが鳴ったときにはとも子さんと一緒にいて、その後、シティーホテルを出てから差し入れを買いに行ったということになる。
途中、阪神タイガースからブランドスーツを身にまとったアイドルへと戻る時間も考えると、神ワザなんとちゃうか? と思えるけど。
ライブ中に短時間で衣装を着替えたりもするらしいって聞くし、そこら辺は慣れっこなんやろう。
うっかりジャケットを間違えて着てしもうたのは痛いミスやったろうけど、道坂さんは全然気づいてへんかったようやし、結果オーライや。
「釘を刺すつもりだったんだ。とも子が道坂さんに嫌がらせの手紙を送りつけてるって知って、止めさせようと思った」
「嫌がらせの手紙? 道坂さん、そんなこと一言も言ってなかったですけど」
「知らせてないんや。彼女の事務所も、彼女のことをよく分かってる。そんな手紙の存在を知ったら、きっとひどく落ち込む」
とことんマイナス思考だから、と諒さんは苦笑する。
仕事の上での批判や誹謗中傷は、そのマイナス思考でもって毒舌を生み出して、笑いに昇華できるけど、ことプライベートにおいては、そうもいかへん、と。
そこらへんについては、ボクも知ってる。
道坂さんが涙を流すところを見たのは、あのときが初めてやった。
ボクの顔をじっと見つめてるから、何か変なものでもくっついてんのかなと思ってたら、いきなりぼろぼろと泣き出すんやもんな。
諒さんと奈々子ちゃんのことを「恋人」やと勘違いして、ぐるぐると永遠に続く螺旋階段を下って疲れ果ててたんやろうな、と今は思う。
ボクの顔の何がきっかけで決壊したのかは、イマイチよく分からんところやけど。
実はボクの方こそ決壊寸前やったなんてことは、誰にも言われへん。
墓場まで持って行くって決めてんねん。
……なんて、めっちゃ話が逸れてるっちゅうねん。
「それにしたって、なんでシティーホテルなんかに?」
「口論になるのは目に見えてたから、人目に付かない場所やないとあかんやろ。僕がこのブランドの服を着て道坂さんと一緒に道頓堀にいるって情報はネットでばらまかれているはずだから、違う服を着ていれば別の女とホテルに入ったって、そう簡単にはバレない」
「……まさか、最初から全部計算ずくだったとか」
「当然。一ヶ月かけて作り上げた完璧な計画。……のハズだったんやけどな」
ドヤ顔で語っていた諒さんの表情が曇る。
どこかで計画が狂ったんやろうか。
「福山、おまえ、俺のこと裏切ったのか?」
「……は?」
鋭い眼光で、諒さんはボクを睨みつけるけれども、
「仰ってる意味がよく分かりませんけど」
「あのときのことや。俺が一度、大阪に戻ってきたとき。おまえ、『とも子のことが好きや』って、俺がいない隙にとも子のこと口説いてたよな」
そこまで聞いて、諒さんの言いたいことが分かった。
そうやろうな。きっとそう捉えられているんやろうな……と、ずっと思ってたけれど。思っていたけれども。
「いや……それ、ちょっと違うんです」
ボクの言葉に、諒さんは怪訝に眉を寄せる。
「あのときボクは、とも子さんのこと『も』好きです、って言うたんです」
「……『も』?」
謎をさらに深くしてしまったらしい。
十数年越しにようやく与えられた弁明の機会や。
ちょっと長くなるけど、しっかり説明させてもらうわ。
諒さんのデビューが決まり、突然の上京。
大阪を離れてしばらくたったある日。
元々、情緒不安定なところがあったとも子さんが、『諒さん欠乏症』に陥ってしもうたんや。
最初は食事も喉を通らず、家にこもりっきりで、痛々しい感じだったんやけど。
だんだん、自暴自棄になってしもうたのか、街までナンパされに出かけるようになったんや。
あの美貌やから、当然、入れ食い状態やったし、ほとんど家に帰らず遊び歩いてたものだから、警察に補導されそうになったりもした。
諒さんがいなくなった心の穴を埋める術を、とも子さんは他に知らなかったんや。
けれども、当時はボクも中学生やった。
とも子さんがどうしてそんな暴挙に出るのかなんて理解でけへんかったし、諒さんへの当てつけでやってるくらいに思ってたし。
なにより、諒さんがいない間、ボクがとも子さんを守らなきゃいけないのに、何もできない自分にただ苛立つしかでけへんかった。
そんな中、や。
諒さんが一度、大阪へ戻ってきたあの日。
どういうわけか、とも子さんはボクの家まで乗り込んできて、こう言うたんや。
福山。あなた、わたしのこと好きでしょう?
つき合ってあげる。だって、諒はもういないもの。
諒はわたしを捨てたの。戻ってこないの。
ねぇ、ほら。今なら何をしても大丈夫。そう思わない?
夏休みの昼下がり、共働きだった両親が家にいるはずもなく。
タンクトップに短パンなんて夏の定番スタイルが、当時のボクには、妙に刺激的に見えてしまっていたわけで。
万年床になってる布団の上で、至近距離で美女に見つめられて、理性が本能に勝てる中坊がどこにおんねん。
誘ってきたのは、とも子さんの方や。
ほったらかしにして大阪を離れていきよった、諒さんが悪いんや。
ここで応じて、とも子さんが少しでも楽になれるんやったら、それでええやないか。
……でも、やっぱりボクは諒さんを裏切るなんてこと、でけへんかった。したくなかった。
諒さんが大事にしてる人やから、とも子さんのことも好きやったんです。
諒さんと一緒にいるから、とも子さんのことも好きやったんです。
ボクにとっては諒さんが一番で、絶対なんです。
「だから、諒さんが戻ってくるまでの代役はしてもええけど、ボクがとも子さんを抱くとか、そういうことはできません……って、とも子さんを説得しようってところで、諒さんがボクの部屋に突入してくるから」
ずっとボクの弁明を黙って聞いていた諒さんは、当惑の表情を浮かべて、
「ちょ……おまえ、なんで、あのときにそれ言わへんねん」
「言い訳する間もなく、外まで引きずり出されて、脳天かかと落としを食らったからですよ」
以来、ボクは諒さんにも、とも子さんにも、会うことはなかった。
諒さんは東京の中学校へ転校し、その後はアイドルとして言わずもがなの活躍ぶりや。
とも子さんがどうしてたのかはよう分からんけど、新学期が始まってからも学校で見かけた記憶はない。
そして、入れ替わるようにして転入してきた、現在の相方である徳川と一緒に行動するようになって生活が一変した結果として、ボクはこうして芸人人生をぼちぼち順調に歩んでいるわけやけど……まぁ、そんな話は誰も興味ないやろうな。うん。分かってるで。
「なんで忘れてたんやろう。さっき、とも子に挑発されて思い出すまで、そこだけ完全に記憶から抜けてた。あんなに衝撃的な出来事やったのに」
「衝撃的すぎてトラウマになったんとちゃいます? 脳ミソが許容できる限界を超えると、記憶に鍵をかけて思い出せなくなることもあるって聞きますけど」
自分の舎弟が自分のカノジョを押し倒して、今にもコトが始まりそうな(ように見えただけで、実際は無理矢理そういう状況にさせられたんやけど)場面なんて、中学生だった諒さんには相当キツかったに違いない。
そこら辺の込み入った事情を踏まえた上での、あの伝言やった。
覚えていたとしたら諒さんはボクのことをよく思ってはいないやろうから、例えば事務所を通すなりなんなり正攻法をとっていたら、門前払いになるんちゃうかな、と。
せやから、少々回りくどいけれど道坂さんを経由すれば、きっと聞く耳を持ってくれるやろう、と。
……まぁ、あのクリスマスイブのときにボクの顔を(モニター越しに)見た諒さんの様子からすると、忘れてしまっている可能性も否定できんなとは思ってたけど。
「……とにかく」
気を取り直した諒さんは改めて、一ヶ月かけて作り上げた完璧な計画を締めくくる。
「釘はちゃんと刺した。今後、もしまだ何か仕掛けてくるようなことがあれば、警察の力を借りることもあり得ると宣言もした。世間に報道されるような事件にまで発展したら、困るのはとも子の方や」
「それやったら、これで一件落着っちゅうことですね。道坂さんがなんも知らんうちに解決できて、なんや諒さん、ヒーローみたいや」
当然、といわんばかりに、諒さんは満足げにプリン(って、もう最後の一個やんけっ!)を口に運ぶ。
と、さじを口にくわえたまま、ぼんやりと宙を見つめて、
「けど……関西弁やなかったんだよな……」
ぼそっと、独り言のように呟く。
「……ダメですよ、諒さん。同情とかそういうの」
「分かってるよ。とも子にはもう二度と会わない」
「絶対ですよ。とも子さんに関わるものは全て処分する勢いやないと。もらったものとか大事に持ってたりしてませんよね?」
「何も持ってない。もう何年経ってると思ってんねん」
諒さんのその言葉を鵜呑みにしたのが、今回の騒動における最大のミスやったと思う。
ボクの知る限りの『とも子さんに関わるもの』をすべてあげて、その所在やら行く末というものを明らかにしておくべきやった。
そうしたら……ヘタしたら諒さんのアイドル生命が絶たれてしまいかねない大事件も、未然に防げたに違いないんや。