間に合わない。
絶望的だった。
妻に危害が及ばないようにと距離を取ったのが仇となった。
油断したつもりはなかった。けれど、
『迷うな。一瞬でも揺らぐと全てを失うことになりかねんぞ――――』
母の言う通りだった。
こんなチンピラ連中、迷うことなく蹴散らしていれば――。
「みっ……!」
届くはずもないのに、思わず手を伸ばした。
失ってたまるか。
その意思とは裏腹に、どすんっと鈍い音が響く。
黒いアスファルトの上に身を沈めたのは……妻ではなくて、チンピラの方だった。
「大丈夫ですか、道坂さんっ」
福山が、横たわるチンピラをまたいで妻に駆け寄る。
僕からはちょうど死角になる位置から、妻に襲いかかるチンピラに何かしらの一撃を食らわせたらしい。
「ちょ……」
呆然としていた妻が、興奮した様子で福山の両手をとり、まくし立てた。
「ちょっと福山くん、何よ今の!? あなた、最初にやられちゃいそうなキャラのくせに、なんでそんなカッコイイことしてんのよっ」
「えっ!? や、別に何もカッコイイことなんて、全然……!」
「カッコイイわよっ! 鮮やかな回し蹴りっ! どこのアクション映画かと思ったくらい素敵っ!」
「み、道坂さん、大袈裟過ぎますって」
「惜しいわ。私が独身だったら、今ので絶対に福山くんに惚れちゃってるわ。あぁ、残念!」
「かっ、かか勘弁してくださいっ。諒さんに睨まれるっ」
なんでやねんっ! と、心の中で思わずツッコミをいれる。
別に。
自分の妻がちょっとほかの男をベタ褒めしたくらいで。
腹を立てるなんてこと、ある訳ないし。
「……っらああぁ!」
僕に向かって殴りかかってくるチンピラを視界にとらえた。
別に。
全然。
腹を立ててなんか。
ない。……けど、
「邪魔くさいんだ……よっ!」
チンピラの腕を取って、グリンッと一本背負い。
地面に背中を打ち付けたチンピラは、完全にダウンだ。
「ぼ、暴力だ! Hinataの高橋が暴力をふるったぞ!」
周囲のチンピラどもが騒ぎ立てる。
「いや、正当防衛でしょ」
「知るか! 暴力は暴力だ!」
面倒くさいことになった。
どうしたものかと頭をかきながら振り返ってみると、福山が青ざめた顔で、頭を抱えていた。
「ああぁ、チンピラがボクの身代わりに……!」
……こっちもなんだか面倒くさいことになってるし。
万策尽きたか……と思った、そのとき。
意外な救世主が、僕たちの前に姿を現した。
目には目を。歯には歯を。
荒くれものには荒くれものを、だ。
感謝はしている。もう大阪に足を向けて寝られない。
ただひとつ、あまりにも派手すぎる登場の仕方だけは、どうにかならなかったのかと一言物申したい。
ドルルルン……!!
爆音が、日が暮れて薄暗くなった駐車場の広大な敷地に響きわたった。
何事かと、チンピラどもが辺りを見回す。
そこへいきなり、大型のバイクが突っ込んできて、
「ぎゃあああああっ!!!」
チンピラのリーダーらしき男が、悲痛な叫び声をあげた。
突っ込んできたバイクが、例の車高の低いスモークガラスの車の屋根に飛び乗ったからだ。
当然、車体は無惨にもベッコベコに凹んでしまっている。
「てめぇ、何してくれとんじゃ、ゴラァ!!」
バイクは僕の目の前で停まる。
その人物はヘルメットを外してチンピラたちを睨んだ。
「あ? テメエら、誰に向かって口聞いてんだ?」
真紅の特攻服。
背中には、派手に散る花びらの刺繍と、『高橋諒』の文字。
「……待て待て待てっ! 息子の名前を特攻服の背中に刺繍する母親がどこにおんねんっ!」
「この間、奈々子のライブに行ったら、奈々子の名前を入れた特攻服を着たヤツがたくさんいたんでな。マネしてみた」
「いやいや、だからって……」
「久々に発注したからな、調子にのって、少しだけ盛りすぎたかもしれんが」
「それのどこが『少しだけ』やねんっ! 盛大に盛りすぎやっ!」
頼むから、その格好でHinataのライブに来るのだけは、やめてくれ。
「……で、結局、何者なんだ?」
置いてきぼりにされていたチンピラが、半ば呆れた様子で問う。
確かに、この情報だけでは、ただのタチの悪いアイドルファンだ。
母は余裕の表情で煙草を取り出して一服すると、ようやくチンピラたちに名を名乗った。
「『電光石火の静枝』って、知ってるか?」
一瞬の間をおいて、チンピラたちがざわつく。
「おい、『電光石火の静枝』って、もしかして……」
「あの伝説の……?」
「聞いたことあるぞ。確か、三十年くらい前に、少女が一人で暴力団をひとつ壊滅させたとかいう……」
「まさか、その少女ってのが……?」
チンピラたちの視線が、母に集中する。
「まあ、そういう訳でな。テメエらはもう用無しだ。散れ」
伝説の(元)少女の、睨みを利かせた鶴の一声。
チンピラどもは、乱闘の舞台となった駐車場から一目散に撤収してしまった。
「まぁ、正確にはワタシ一人じゃないけどな」
母は笑いながら、煙草をふかす。
恐ろしいことに、暴力団を壊滅させた、という部分は否定しないらしい。
それはそておき、
「ごめん、母さん。助かっ……」
礼を言おうとすると、母や鋭い目つきで僕を睨んだ。
「ワタシはおまえを助けにきたんじゃない」
そう言って母は、どういう訳か僕に背を向けて、とも子に近づく。
戸惑うとも子に、母は真面目な表情で声をかけた。
「暴力で自分に従わせようと思うな。それではおまえの母親とやってることは変わらんぞ」
母の言葉に、とも子は表情を強ばらせた。
僕も思わず、眉を寄せる。
とも子のことを母に話したことは、中学時代からただの一度もないはずなのに、なぜ、母はとも子のことを……?
僕の疑問をよそに、母はなおも、とも子をなだめ続ける。
「暴力なんてな、物事を一時的に解決する手段にはなり得ても、最終的には自分の為にはならん」
登場の仕方からして説得力がなさすぎるけど、ここは黙って見守ることにする。
「……じゃあ、どうしろって言うの? 解決する方法があるなら、教えてよ」
「そう逸るな。落ち着いて考えろ。おまえは賢い。あんなチンピラ連中に頼らずとも、自分で解決できるだけの力がある。冷静かつ論理的に、諒と二人できちんと話し合え」
ぽんっと、母はとも子の肩を叩いて促す。
……『諒と二人で』?
「は……えぇっ? 母さん、そんな勝手に決められても……」
「おまえが一方的に別れると言って切り捨てたんだろう。話ぐらい聞いてやれ。それがおまえの義務だ」
義務、ですか。
十年以上も前に別れたカノジョとの別れ話を改めて、しかもよりにもよって、母親と妻の目前でしなければならないなんて。
どんな拷問だよ、まったく。
****
お義母さんの提案で、諒くんと元カノである美女とで話をすることになった。
諒くんは渋々という感じだけれど、美女はもう自分の勝ちが決まったような顔で私を一瞥する。
ふざけんじゃないわよ。
あくまでも、『積年の未練を精算するための話し合い』でしょうが。
この状況で、どこをどうしたら『勝算あり』だと思えるのかしらね。
旦那が昔のカノジョと別れ話をするところを見なきゃならないこっちの身にもなってほしいわ。
「『待っててほしい』って、言ったじゃない」
美女は縋るような目で、諒くんを見つめた。
「『何年かかるか分からないけど、仕事が軌道に乗ったら迎えにくるから待っててくれ』って、諒、あのときそう言ったでしょ?」
「言ったよ。でも、とも子が拒否したんじゃないか。『嫌だ、待てない』の一点張りだっただろ」
「諒が側にいないと不安だったの」
「分かってるよ。だから『なんなら今すぐ一緒に上京しようか』って提案したけど、とも子はそれも蹴ったよね」
「それは……」
美女は苦い顔をして黙り込む。
どうしてかしら?
諒くんの言ってる『提案』って、要は『駆け落ち』のようなものよね。
そんな提案なんかされたら、舞い上がっちゃってどこまでも逃避行……なんてヒロイン気分になってもおかしくないわ。
そりゃあ、当時は中学生だった二人だから、実際には実現不可能だったのだろうけれど。
十年以上も昔の彼氏を、こうして執拗に追いかけまわすような執念深いこの美女に、現実的かつ冷静な判断ができたのかしら?
それとも、駆け落ちの提案を蹴らざるを得ない、よっぽどの理由が……?
「『待てない』、『一緒に上京もできない』。だったら、別れるしか道はない。そうでしょ?」
諒くんは、咎めるような口調で言う。
「諒が、芸能界よりわたしを選べばよかったじゃない」
「それは無理だよ。あの時点で、既にデビューが決まってたんだ。辞めるなんて言ったら、たくさんの人間に迷惑がかかる」
それに、と諒くんは言いつなげる。
「あの日……僕が大阪に戻った日、とも子は何してた? 忘れたとは言わせない。僕が大阪を離れて一ヶ月も経ってないのに、君は……君は、福山と……」
諒くんは握り締めたこぶしを小刻みに振るわせながら、その先を言い淀む。
それって……まさかの、浮気!?
しかも、諒くんと仲の良かったはずの福山くんと!?
中学生だったくせに……フケツ!
軽蔑の眼差しを福山くんに向けると、福山くんは慌てて首を横に振る。
そうこうしている間にも、(元)中学生カップルの言い合いは続く。
「さっきも言ったじゃない。それは、福山が……」
「嘘だ。福山が君を口説いたんじゃない。とも子が福山を誘惑したんだ」
「そんなこと、あるわけないじゃない。諒だって見たでしょ? だからあの時、福山のことを殴ってわたしを助けてくれたんじゃない」
「福山から聞いたよ。僕の勘違いや、とも子の言い分が間違ってること。福山が、とも子の誘いを断ったことも」
「……どうして? わたしのことより、そんな使いっぱしりの人間の言うことを信用するっていうの?」
プツンッ。
こぶしを握り続けている諒くんの中で、何かが切れたように見えた。
「君は、僕が結婚していることを知っていながら、僕を誘惑した。既婚者にそんなことができる人間を、誰が信用できるって言うんだ!」
諒くんは吐き捨てるように言い放った。
そんな諒くんの頭を、お義母さんがどこかの大御所芸人のツッコミのごとく引っ叩く。
「ワタシはこいつの話を聞いてやれと言ったんだ。おまえが一方的にぶちまけてどうする」
「聞く必要なんてない! 僕はもう結婚してるんだ。とも子とのことは、もう十年以上も前の過去の話だ。それだけで拒否する理由としては十分だろ!」
激昂、という表現が適当かもしれない。
普段は穏やかで温厚な諒くんがこうなってしまったら、誰だって怯むだろう。
……と思いきや、美女はまったく動揺するそぶりも見せず、
「じゃあ、仕方ないわね」
そう言いながら、美女はふところから包丁を取り出した。
え? ちょっと待って。
――包丁!?
「殺してやるわよ。その女がいるから、わたしの話も聞いてくれないんでしょう?」
美女の持つ包丁の先は、私に向けられている。
……ちょっと待ってよ。
私が死んだら、自分の思い通りになるとでも思ってるの、この美女は?
そう思ってるみたいだわ。だって、目が本気だもの。
そんな狂気に満ちた美女を目の前にした諒くんは、さすがに動揺した表情を。
……しないのよ、これがまた。
心底うんざりした顔で、諒くんはため息をつく。
「とも子、分かってるでしょ? 脅しても無駄だよ」
「無駄かどうか、やってみなきゃ分からないじゃない」
美女は刃先を私に向けたまま、近づいてくる。
側にいたお義母さんが美女を諭してくれる……とおもいきや。
煙草をふかしながら腕組みなんかしちゃって、完全に静観の構えだ。
嫁の危機だっていうのに、この親子は……ほんとにもうっ。
「絶対に後悔させてやるんだから」
美女が、手にした包丁を私に向けたまま、突進してくる。
悲鳴を上げる余裕もなかった。
突然、私の視界に諒くんが飛び込んできたからだ。
アイドルオーラ全開の、高級ブランドスーツの背中。
美女の持つ包丁と私の間に、割って入った形だ。
一瞬のうちに、いろんなことが頭の中を駆けめぐる。
ねぇ、嘘でしょ?
それ、作り物の刃物よね?
もう、撮れ高も十分じゃない?
この期に及んで、目の前で起きている光景が何かしらの番組企画による収録なんだと思ってしまう。
っていうかね、そう思いたくもなるわよ。
諒くんも福山くんも、諒くんの元カノだっていう美女も、仕掛け人。
暴力団を壊滅させただなんていう諒くんのお母さんにしたって、もしかしたら、さっき伺った諒くんの実家からして仕込まれたものだったのかもしれない、なんて。
けれど、『ドッキリ大成功』のプラカードを持ったタレントが登場する気配は微塵もなかったし。
美女が手にしていた刃物が、紛れもなく本物であると証明することになってしまった。