18 どこかの駐車場 3

 諒くんの足元に、一滴。また、一滴。
 刃先をつたって滴り落ちる、鮮やかな赤。

 ウソでしょ……?
 赤い絵の具か、ケチャップか何か、上着のポケットにでも仕込んでたんでしょう?

 ……なんて思いたくても、目の前の緊迫感がそれを許さない。
 地面に少しずつ広がっていく血は、間違いなく諒くんのものだ。

 標的だったはずの私の目の前に飛び込んできた諒くんは、美女の攻撃を文字通り、力ずくで阻止した。
 襲いかかる包丁の刃を、素手で握りしめて止めるという荒技。
 いや、もう……正視に堪えないわ。

「分かってよ、とも子」

 諒くんは、なだめるような優しい声で、美女を諭した。
 美女はというと、諒くんがほんとに血を流してしまったことに動揺しているのか、包丁の柄を握ったまま震えている。

「あのとき僕が未熟だったせいで、とも子には辛い想いをさせた。本当に申し訳ないと思ってる。けれど、今の僕は、とも子のことは好きじゃない」
「……嘘だ。嘘よね?」
「嘘じゃないよ」
「いやだ……いやだ! 聞きたくない! いやだっ!!」
「……ごめん」

 諒くんが、美女を抱きしめた。
 傷を負っているのも忘れたのか、美女のワンピースの背中が血に染まっていく。

 正直に言えば、自分の旦那が他の女を抱きしめるシーンなんて、見たくはないわ。
 しかも、よりにもよってこんな目の前で。
 でも、私がここでしゃしゃり出ていったらいけないんだと思った。

 美女は諒くんの腕の中で、ひたすら泣き喚いた。
 いやだ、いやだ。……ずっと、そればっかり。
 諒くんはやさしく美女を抱きしめながら、ただ黙ってそれを聞いていた。
 わがままを言って泣きじゃくる子どもをあやしているみたい。

 そうして、しばらくなだめていると、美女はポツリとこぼした。

「……本当はね、諒と別れてから、いろんな人と付き合ったの」
「うん」
「でも、みんなすぐに、わたしから離れていく。まともに相手してくれるのは、あんなチンピラばっかり」

 美女の顔が歪む。さっきまで泣きじゃくっていたのとはまた違う、とても苦しくて辛そうな表情。

「生まれてこなきゃよかった。わたしがいなければ、誰にも嫌な思いさせなくて済んだのに。諒のことも、……」

 その先の言葉は、私には聞き取れなかった。
 美女は諒くんの肩に顔を押し付けて、消え入りそうな声で続ける。
 それを聞いていた諒くんは、何をどう言ったらいいのか迷うような表情でしばらく考えた後、ゆっくりと口を開いた。

「僕は、とも子と出会ったことや、付き合ってたことが嫌な思い出だなんて思ってないよ。辛い想いはたくさんしたけど、それは自分が未熟だっただけで……とも子のせいじゃない」
「……嘘じゃない?」
「うん。本当は、とも子も分かってるでしょう?」
「でも……」

 まだどこか納得しきれていない様子の美女に、諒くんは何度もうなずいて、

「とも子の母親がどう思ってるかは分からない。『子どものコトを思わない親なんていない』とか、そんな無責任なこと、僕は言えない。でも、親がどう思っていようが、関係ないよ」

 ……ちょっと話が見えないわ。
 この美女、母親と何かしらの確執でもあるのかしら。

 説明してほしいところだけど、二人の会話に割って入る勇気はない。
 そのあたりに関しては、私は完全に部外者だもの。

「過去のことはずっと恨んでたっていいからさ。それはそれとして、とも子はとも子の人生を進んでいけばいいと思う。うまくいかなくて、もどかしいこともあるだろうけど、順風満帆な人生を歩む人なんて、ほんの一握りしかいないんだよ」
「……嘘。諒の人生は順風満帆でしょう?」
「そんなことないよ。僕だって、とも子と別れてから彼女に出会うまで、いろいろあったんだから」

 諒くんの手のひらが、優しく美女の頭をなでる。
 目を閉じて、口元に笑みを浮かべて。

 ……分かってるわ。我慢よ。
 そういうことするのは私だけにしてよ、なんて。
 言いたいわよ。言いたいけれど、言えるわけないじゃない。

 詳しい事情は分からないけど、美女がこれからの人生を進む第一歩のため。
 ひいては、諒くんが美女から解放されるための儀式なんだから。

「ねえ、諒。お願いがあるの」

 少しは落ち着いたらしい美女が、上目遣いに諒くんを見つめて、甘えた声を出す。
 ……なんだか嫌な予感がするわ。

「もう嫌がらせはしない。諒に迷惑もかけない。だから、せめて……せめて最後にキスくらいしてよ」

 どんだけ往生際が悪いのよ、この美女は。
 そんなの、諒くんだって絶対に断るに決まってるじゃないの。
 どこの世界に、奥さんの目の前で、大昔の恋人とキスする男がいるっていうのよ。

 ……と呆れていると、

「いいよ」

 諒くんは迷う素振りすら見せず、快諾の返事。

 冗談じゃないわよ!

 さすがに堪えかねて突っかかろうとした私を、諒くんは傷を負っていない方の手だけで制した。

「ただし、仕事に限らせてもらう。正式に事務所が引き受けた仕事だったら、どんな内容だろうと僕は断らない。映像でも写真でも、提案はご自由にどうぞ」
「……冷たい。昔はこんな人じゃなかった。東京で芸能界なんかに入ったから、変わっちゃったのね」

 美女の言葉に、諒くんは少し寂しそうに笑う。

「変わらないよ。あのとき、とも子が苦しむのを分かってて、それでも仕事を選んだ。冷たい男だよ、僕は」

 諒くんが手のひらに負った傷は、出血の量に比べて意外と浅かった。
 ……いや、私の目から見れば、どこが浅いのよって感じなんだけれど。

「急いで診てもらう必要はないと思いますよ。でも、念のため、東京に戻ったら一度、病院へ行ってくださいね」

 諒くんの手に包帯を巻きながら、そう指示を出すのは福山くんだ。

「こうしてまた、諒さんの傷の手当てをする日が来るとは、夢にも思ってませんでしたけど」
「まさか、昔もこんなことがしょっちゅう……?」

 おそるおそる聞いてみると、福山くんは笑いながら頷いて、

「救急セットがいくつあっても足りないくらいで」
「おまえ、それはいくらなんでも言い過ぎやろ」

 諒くんは少しばつが悪そうに苦笑う。
 たぶんきっと、福山くんの言い分の方が、より真実に近いんじゃないかしら。

「母親が看護士で、最低限の応急処置の知識は教え込まれてたんです。それが見込まれて、ボクは諒さんのお抱え衛生兵に」

 福山くんの冗談めかした言葉も、諒くんは諦めたのか、もう否定もしない。

「やだ、ちょっと。袖口!」
「ん?」
「血がついてる」

 私の指摘に、諒くんはジャケットの袖口を確認。

「あぁ、まずいね」
「……もうちょっと、焦ったりしないの?」
「ついちゃったものは仕方ないし」
「借り物なんでしょう?」
「うん。でも、買い取り決定だね」
「だって、結構なお値段……」

 ぽんぽんっと。
 包帯が巻かれていない方の手で、諒くんは私の頭をなでた。

 お金のことは心配するな、ということなんだろうけど。
 いくら諒くんが稼いでるからって、余計な出費はできれば避けたいところじゃない。
 いつ仕事がなくなるかも分からないような職業なんだし。
 マンションのローンだって、まだ残ってるんだから。

 私の頭をなでる諒くんは、どういうわけだか、少しまぶしそうに目を細めて、笑みを浮かべる。
 照明さんが諒くんに向かってライトを当ててるわけでもないのに、なんて。
 ちょっと不思議に思ったけれど、諒くんの表情が幸せそうだから良しとするわ。
 何はともあれ、これで一件落着ってところかしら。

 深ぁーく、ため息。

 気づけば、あたりはすっかり真っ暗。
 駐車場のところどころに設置されている外灯だけで、なんとか視界が確保されているような感じ。

 安堵の中、ぼんやりと暗闇を眺めていると、

「とも子ぉ!」

 遠くから、美女の名を呼ぶ声が響く。

 いったい、誰かしら?
 まさか、チンピラどもの大ボスレベルの悪党がいらっしゃったとか!?

 おそるおそる視線を向けてみると、意外な人物の出現に、びっくり。
 さっき、お花見の後で諒くんと立ち寄ったタバコ屋の店主だ。
 足を悪くしているのか、少し引きずるようにして、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 どうして、タバコ屋のオジサンが、ここに……?

 諒くんをうかがってみると、突然の店主の登場に驚いているみたいだけど、訝しんでる様子はない。

 頭の中に「?マーク」をいっぱい浮かべていると、

「……お父さん!」

 美女が立ち上がって、タバコ屋の店主に向かって叫んだ。

 お父さん?
 ……お父さん!?

 このハゲ散らかしたオジサンが、(性格はともかく)目もくらむほどの絶世の美女の……!?

「母親が超絶美人なんだ。このオヤジだって昔は、少しは見られる顔だったんだぞ」

 まるで私の頭の中をのぞいたかのようなタイミングで、諒くんのお母さんが説明する。
 いやもう、何て言ったらいいか分かんないわ。

「テレビ見てたら、なんや見覚えのあるライターが映っとると思ってな」

 タバコ屋のオジサンはさみしい頭をかきながら、この場所へやってきた経緯を語り始めた。

 私が諒くんから預かってて、カバンに入れっぱなしにしていたあのライター。
 テレビの画面に映し出されたライターに見覚えがあると怪訝に思って見ていたところ、なんと。

「静枝ちゃん……諒ちゃんの母ちゃんがウチに来てくれてな」

 訳の分からないうちに、あの大型バイクの後ろに乗せらせ、ここまで連れてこられたそうだ。

「チンピラどもとの乱闘に巻き込む訳にはいかんからな。離れたところで待たせておいたんだ」

 諒くんのお母さんが、(オジサンに『静枝ちゃん』と呼ばれたのが気に障ったかどうかは不明だけど)苦い顔して補足する。

「一瞬やったし、色が変わっとったけど、間違いないわ。わしが昔、とも子の母親からもらったやつや」
「えっ、でも、イニシャル……」

 諒くんが戸惑うのも無理ないわ。
 あのライターには、持ち主のイニシャルだと思われるアルファベットが彫ってある。
 以前、カバンの底から発掘したときにじっくり観察したことがあるから覚えてるわ。
 とてもおしゃれな字体で、『R』の文字。
 どう考えても、『諒=Ryo』の『R』だと思ったし、諒くん本人もそう信じて疑わなかったんだろうけれど。

龍太郎りゅうたろうの『R』や。桂木龍太郎かつらぎ りゅうたろう。ええ名前やろ?」

 まさかの、イニシャルかぶり。
 これには諒くんも、二の句が継げないみたいだ。

「いつだったか、失くしたとばかり思っとったけど……諒ちゃんが持っとったとは」
「お、お返ししますっ」

 諒くんが言うので、私、慌ててライターの入ったカバンを取りに、福山くんの車へ戻ろうとしたけど、

「いやいや、ええって。いつまでも未練がましく持ってたらあかんよなって思ってたところやったし。諒ちゃんが持っててくれた方が、わしもうれしい」

 そんなことを言われてしまっては、諒くんも無理に返すとは言えない。
 私としては、旦那が元カノの父親の思い出の品を持ってるなんて、あんまりいい気分じゃないんだけれど。
 
「それより、とも子のことやけど」

 タバコ屋のオジサンは、頭をかきながら(クセなのね、これ)切り出した。

「諒ちゃんに怪我までさせてもうて、ほんまに申し訳ない。警察にはちゃんとわしが連れていくから……」
「警察には行かないでください。できれば、あんまり騒ぎにはしたくないので。それに、怪我も全然大したことないですし。……ね?」

 同意を求めるように、諒くんは私の顔を見た。
 珍しいことに、少しは私に気を遣ってくれてるのかしら。

 いろいろと思うところはあるけれど、私、何も言わずにうなずいた。

 まあ、怪我を負ったのは諒くんだし、本人が大したことないって言うなら大したことないんでしょうし。
 私がとやかく言える話じゃないわよね。
 警察沙汰になってマスコミに嗅ぎ付けられちゃったら、お互いの事務所にも迷惑かけちゃう。

 ……別に、うまいこと笑いのネタにする自信がないとか、そんなことじゃないわよ!

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