19 高橋家 2階

 僕が中学生のときに付き合っていたカノジョ、桂木とも子は、僕が中学一年のときに、この大阪に越してきた。
 とも子は誰とも打ち解けようとはしなかった。
 恵まれすぎた容姿と優秀すぎる頭脳は、周りと比べてあまりに異質だったから、なじめなかったのも無理もない。

 そんなとも子のことを、僕は気にかけていたというか、なんというか。
 特殊能力で何かしらの光が見えるかと、ほんの好奇心からすれ違いざまにとも子に触れたら、いきなりカッターナイフの刃を突きつけられた。

 当時から、とも子に刃物はデフォルト装備だった。

 まぁそれがきっかけでつき合うようになった訳だけど、いま思えば、なぜそこでそういう判断をしたのか、自分のことながら理解に苦しむ。
 ……だからって、別に間違った判断だったと後悔している訳でもないけど。

 僕にだけは徐々に心を開いていったとも子は、幼少期のことを話してくれるようになった。

 大阪に越してくる前は、東京で暮らしていたらしい。
 あまり詳しくは話せないけど、とも子は母親に虐待されていたようだった。
 
 美人で成績優秀。
 それでも何が気にくわなかったのか、母親はことあるごとにとも子に暴力を振るう。

 父親の存在は知らなかった。
 学校の先生達は、深く関わろうとはしなかった。
 自分だけが、異世界の住人なんじゃないかという気がしていた、と。

 そんな苦しい状況下でのある日。
 とも子が語っていたことが事実であるなら、突然、見知らぬ女性が部屋にやってきて、自分を連れ出したのだという。

「諒が事務所に行く付き添いで東京へ行ったとき、ついでに尋ねてみたら、ちょうどそいつが母親と激しくやりあってたところでな。『家を出たい』って言うから、諒の用事が終わるまでのクソ暇な間にカツラギのハゲおやじんとこに連れてったんだ」

 とは、さっきどこかの駐車場での騒動が一段落ついた後、僕の母親から聞かされた話だ。
 僕の母親は、とも子の母親とは昔からの知り合いだったらしい。
 そんな、ドラマみたいな都合のいい話があるものか、と言いたいところだけど、

「静枝ちゃんも、とも子の母親も、昔は関西のヤンキー界ではツートップやったからなぁ」

 とも子の父親である、カツラギ商店の店主が笑って言ってたから、間違いではないんだろう。
 あまり深く掘り下げて聞くのもなんだか恐ろしい気がするので、このくらいで止めておく。

 それはそうと、僕の母親がとも子やその母親と接点があったなんて初耳だと母に訴えたら、もし知っていたら何かが変わっていたのかと言われてしまった。
 もし知っていたら、あのとき、仕事のためにとも子を見捨てることはなかったのか、ということだろう。
 そう言われてしまったら、僕は黙るしかない。

 とも子の境遇を知っていながら別れて仕事を選んだという過去は、歳を重ねるごとに罪悪感を増幅させた。
 自分の選択が間違っていなかったと思いたくて、とにかく仕事で結果を出そうと必死だった。
 アイドルとしても俳優としても、どんなに良い評価をもらっても満足できず、欲張って空回りする日々。

 そんなときに出逢ったのが、地味でモテないお笑い芸人。
 何よりも大事な、僕の妻だ。
 彼女と出逢えなかったかもしれない人生なんて、今の僕には想像もできない。

 眉間にしわを寄せて、少し不満げに口をへの字に曲げている。
 笑顔を見せることはあまりないけれど、見慣れた妻の顔にはやはり安堵する。

 とも子を僕の手で幸せにしてあげられなかったのは、ずっと心残りではあったけど。
 今回のこの騒動をきっかけに、そのわずかな心残りも手放すことができそうだ。

 妻がずっと無愛想なままでも別に構わないけど、眉間のしわはできれば少ない方がいいでしょう?

 ****

 むぅぅ……困ったことになったわ、と。
 階段を上がりきったところ、二つのドアを前に、私は腕組みをして唸った。

 右に行けば、奈々子ちゃんの部屋。
 左に行けば、諒くんの部屋だ。

 結局、今夜は諒くんの実家に泊めてもらうことになった。
 夕食もお風呂もいただいて、後はもう寝るだけの状態。
 ちなみに、パジャマは近所でひっそり営業している婦人服のお店で買ってきたわ。
 こんなに近くにお店があるなら、旦那さまの実家にジーパンで訪問なんて事態は避けられたのに……なんて、そんなこと今となってはどうだっていいのよ。

 一応、奈々子ちゃんの部屋で休んでいいって言われたの。
 そもそも誰かが訪ねてくるなんてことが滅多にないから、いわゆるお客様用布団は用意してないんですって。
 別にね、お客様扱いして欲しいだなんて毛頭考えちゃいないし、部屋に入りたくないくらい奈々子ちゃんのことが嫌いってわけでも、もちろんないんだけど(なんてったって、可愛い義理の妹だもの)。

 ただ、一つ。
 私が奈々子ちゃんの部屋を使わせてもらうのをためらってしまう、若干だけれどもとても困った問題が……。

「……どうしたの?」
「うひゃぁっ」

 突然の声に振り向くと、階段を上ってきたらしい諒くんが私を見上げていた。
 
「もう、いきなり後ろから話しかけないでよ。びっくりするじゃない」
「みっちゃんが通り道をふさいでるから、後ろから話しかけるしかないんだよ」
「てっきり、自分の部屋にいるんだと思ってた」
「うん……ちょっとね。顔を洗いに」
「顔なんてお風呂で洗ったでしょう。歯磨きじゃなくて?」
「歯磨き……も、したけど」

 なんだか微妙に歯切れが悪い。
 怪訝に思って顔をしかめると、諒くんは私の眉間を指で押さえた。

「やめてってば。今日何回目よ」
「それだけみっちゃんが眉間にシワを寄せてるってことだよ」
「ごめんなさいね、いつもいつもしかめっ面で」

 別に構わないけど、と諒くんは笑う。
 構わないなら、なぜいちいち指摘するのかしら。

「で、どうしたの? こんなところで立ち往生しちゃって」
「うん……やっぱり、ちょっと、悪いかなぁと思って」

 私は再び腕組みをして、奈々子ちゃんの部屋の前でうなる。

「一応、奈々子にも許可はとったよ。『全然遠慮しないで』って」
「それはとってもありがたいんだけど……」

 私が奈々子ちゃんの部屋を使わせてもらう案を躊躇するのは、実は、遠慮とかそういう類のものじゃない。
 実際、ついさっき、諒くんに声をかけられるちょっと前に、奈々子ちゃんの部屋を覗いてみたの。
 ありがたく使わせてもらうつもりでね。

 だけど……ねぇ。見ちゃったんだもの。

 かわいらしいカバーリングのベッドの横の壁に。
 スーパーアイドルグループ(なのよね、そういえば)Hinataの、特大ポスター。
 しかも、デビューからあまり年月が経ってなさそうな頃の。

 寝るときも目が覚めるときもお兄ちゃんのポスターを眺めてるとか、どんだけ仲良し兄妹なのよ、なんてことはさておき。

 うん……まぁ、要するに、あんまり見たくなかったのよ。
 そのポスターの中で笑ってる、デビューしたての、中学生の諒くんを。
 きっと、心のどこかでまだあの美女のことを大切に思ってる、私の知らない昔の諒くんの姿を。

「眠れないの?」
「そういう訳じゃないけど……」

 どうにも動かない私に、諒くんは首を傾げる。
 と、私に顔を寄せて、

「……寂しいなら、僕と一緒に寝る?」

 首筋に、諒くんの唇が触れる。
 階段を上がりきってない諒くんの方が、頭の位置が私より少しだけ低い。
 そのまま、ふわりと微妙な力加減で抱きしめられた。
 
 一階では、まだ諒くんのご両親が起きてるっていうのに。
 なんだか、イケナイことしてる気分。

「どうぞ。ちょっと散らかってるけど」

 諒くんは私の手を取って、自室のドアを開けた。
 まだ私、一緒に寝るなんて言ってないのに。
 断る理由も、もちろんないんだけど。

 諒くんの言う『ちょっと散らかってる』は、曖昧にして極めて正確な表現だと思った。
 中学生のころからそのままになっているというだけあって、懐かしの漫画やゲームがたくさんあるけど、きちんと収まるべきところに片付けられてる。
 おおむね、部屋全体は普通にキレイだ。

 問題の『ちょっと散らかってる』場所というのは、学習机の周りだった。
 当時使っていたらしきノートや、少しだけ鮮明さに欠ける写真なんかが、本棚と机の周辺にバサバサっと広げられている。

「いろいろと思い出してたんだ、昔のこと」

 散らかった物を片付けながら、諒くんは語り始めた。

「嫌がらせの手紙をみたときは、重荷というか、嫌な気分でしかなかったけど……今、冷静になって思い返してみれば、昔は楽しいこともあったよな、って」

 諒くんと美女は、二人そろってあまり素行が良くはなかったそうな。
 二人で授業をサボっては、隠れてたばこを吸ってみたり。
 春には公園で満開の桜を見ながら、堂々とビールを飲んでみたり。
 その割に、一緒に勉強なんかもしたりして。
 成績(だけは)優秀だった美女のおかげで、苦手だった数学も理解できるようになったとか。

「つき合ってるのは学校では秘密にしてたけど、いま思えばバレバレだったんだろうな」

 と、諒くんが手に取ったのは写真だった。
 観光地らしきところで、制服姿の諒くんと美女が仲よさそうに写ってる。

「修学旅行?」
「そう。グループ行動のときにこっそり抜け出して、密かに合流、みたいな」
「……なんていうか、青春ねぇ」
「うん。僕がアイドルになる前の、普通の青春らしい青春って感じ」

 世間の『普通』の中学生は、修学旅行でカノジョと抜け出したりは、あんまりしないと思うけど。

「そんな昔の青春のあれやこれやを思い出してたら、不覚にも泣いてしまった」

 美女との写真を見つめながら、諒くんは少し照れくさそうに笑う。

「それで、顔を洗いに?」
「うん」

 なるほど。
 だから、さっき階段で顔を合わせたとき、微妙に歯切れが悪かったってわけね。

「泣いたらスッキリした。これで本当に、とも子のことは過去のことになった感じがするよ」

 諒くんは穏やかに微笑みながら、美女との思い出の品の数々を手早くまとめて、机の引き出しに無造作に放り入れた。
 東京から遠く離れた大阪の実家に頻繁に訪れるわけじゃない諒くんにとっては、きっと机の引き出しもゴミ箱とほとんど変わらないのね。
 その様子を見つめながら、私は長かったこの一日を思い返した。

 諒くんにたたき起こされた朝から始まって、新幹線でやってきた大阪での今日この一日。
 大掛かりなドッキリに引っかかったくらいの疲労感だってのに、ギャラがもらえるのは夕方の情報番組の部分のみという……なんて。
 考えることが浅ましいことこの上ない。

 とにもかくにも、これで終わりなのよね。

 引き出しが小気味よい音を立てて閉まると、部屋の空気が静まりかえった。
 同時に、漂う妙な緊張感。

「もう寝る?」

 諒くんが悪戯っぽい顔で、私をうかがう。
 緊張感の正体が分かった。

 男の人の部屋。階下にはご両親がいる。
 もう一生経験することもないだろうと諦めていたシチュエーション。
 既に結婚しているとはいえ、初めてのこの状況に顔が強ばる。
 こちらの動揺を完全にお見通しらしい。

 諒くんは笑いをこらえながら、部屋の電気を消した。

 ……けれど。
 すぐにまた、部屋が明るくなる。

 どうしたんだろう、と諒くんの様子をうかがってみると、

「こんなところにいたのか」

 掛け布団をめくった諒くんは苦笑い。
 そこに丸まっていたのは、諒くんの愛猫のトモ。
 ニャウゥ……と一声鳴いて、ベッドに腰掛けた諒くんの膝に座る。

 もう、おかげで緊張がどこかに飛んでっちゃったわ。

「このコの名前の由来はやっぱり……あの美女?」
「うん、まぁ、なんていうか……子猫だったトモを部屋で世話しながら、カノジョのこと考えてて、うっかりつぶやいてたみたい。カノジョの名前を。そこにたまたま奈々子が通りかかって……」
「聞かれちゃったもんだから、猫の名前だってごまかすしかなかった、と」
「ん……そんなとこ」

 元カノの名前がついてしまったものだから、上京して一人暮らしをするようになっても引き取る気にはなかなかなれなかった、と笑いながらぼやく。

 私も諒くんの隣に座ってトモの背中を撫でてみると、トモは私の膝に移動してきた。
 何度か私に話しかけるように鳴いた後、居心地良さそうに膝の上で丸くなる。

「なついてるね」
「他人になつくのは珍しいの?」
「さぁ……そもそも他人が来ることなんてめったにないからなぁ。家族以外では……福山くらいかな」
「あの美女が家に来たなんてことは……」
「ないない。中学生だったんだよ。カノジョを親に紹介とか、ハードル高いよ」
「そういうもの?」
「そういうものだよ。いいじゃない、おかげで親に初めて紹介したコがみっちゃんなんだから」

 何がどういいのか理屈はよく分からないけど、悪いことでもないから良しとしておくわ。

「トモ、そろそろどいて。そこは僕の席だからね」

 言いながら諒くんはトモを抱きかかえて床に下ろすと、それまでトモが乗っかっていた私の膝にごろんっと頭を乗せてきた。
 さっきトモが乗ってきたときと同じように、居心地良さそうに目を細める。
 トモも諒くんも、甘え上手な感じが似ているような気がするわ。

 私はトモの背中を撫でたのと同じように、諒くんの髪を撫でた。

「みっちゃんの膝枕、結構好き」
「膝枕が?」
「うん」

 膝枕だけ褒められても、あまり嬉しくない。

「私のことは……好き?」

 聞くと、諒くんは不満そうな表情で、

「これでも命懸けだったんだけど?」

 と、包帯の巻かれた右手を私の顔の前にかざす。

 分かってるけど。
 命懸けで私を守ってくれたのは、分かってるけど。
 できれば、聞きたいと思うじゃない。
 諒くんの口から。

「ねえ、みっちゃん。知ってる?」
「ん?」
「うつむいた顔を下からのぞき込むと、十年とか二十年後の老けた顔が見られるんだって」
「……それ、諒くんが今、私の老けた顔を見てるってこと?」
「そう」
 
 話をそらした上に、何を言い出すかと思えば。

「ひどい顔になってる?」
「さあ、どうかな」

 思わず眉間にしわを寄せると、諒くんは微笑んで私の頬に手を伸ばした。
 触れる指は、いつもよりなんだか温かい。

 諒くんは私の顔を引き寄せて、お互いの鼻の頭をつんと合わせた。

「二十年後、この顔を素で見られる日が楽しみだよ」

 意味が分からない。
 けれど、重なる唇の感覚で、きっと悪い意味ではないんだろうな、と思った。

0