20 タバコ屋『カツラギ商店』

 誰もいない朝の公園を歩きながら、一つ大きな深呼吸。
 見上げれば桜の木の枝に、小鳥がとまっているのが見える。
 昨日は例の一件をどうしようかと頭がいっぱいで、花見を楽しむ余裕もなかった。
 せっかく妻と初めての花見だったのに、もったいないことをしたものだ。

 妻を守るためとはいえ、いくつも嘘をついた。
 未遂に終わったとはいえ、危うく裏切るところだった。

 不安にもさせた。怖い思いもさせた。
 苦しくなるような場面も、たくさん見せてしまった。

 いつまで経っても、僕は無力だ。

 ため息をつく。次に大きく息を吸い込んで、芝生の青い匂いがする空気を肺にためる。
 季節は春。今日から4月だ。

「おう、諒ちゃん」

 店の前の道路を掃除していたタバコ屋『カツラギ』の店主――とも子の父親が、僕に気づいてその手を止めた。
 
「びっくりした。昨日のうちに東京へ帰ったんやと思うとったわ」
「妻と実家に泊まりました。でも、昼には大阪を出ます」

 そうか、と店主は自分の頭をなでながら、今度は僕の手に巻かれた包帯を見つめる。

「傷、ホンマに大丈夫か?」
「母にしかられました。『気が緩んでるからだ』って」

 本当は、手首や腕あたりをつかむつもりだった。
 けれど……やっぱり、売られたケンカを買わされる日々が遠い昔となった今の僕には、できない芸当になってしまったらしい。
 ただ、それでもこの程度の傷で済んだってことは、とも子の方も本気で刺すつもりじゃなかったんだと思う。

「で、こんな朝早くにどうしたんや? 静枝ちゃんに買い物頼まれたか?」
「いえ、今日は、これをお返ししようと思って」

 首を傾げる店主に、僕はある物を差し出した。
 例のライターだ。

「あぁ、別にわざわざ返しに来てくれんでもええのに」
「タバコを吸わない僕には必要ない物ですし、……何より、妻もあまりいい顔しませんし」
「そうか、そうやなぁ。旦那が昔の女からもらった物なんて、そりゃあいい気はせんよなぁ」

 僕が差し出したライターを受け取ると、店主は懐かしそうに目を細めた。

「昨日あれから、とも子にいろいろと話をさせてみたんや」

 昨晩を思い起こしながら、店主は語る。

「わしのこと、疑っとったというか、信頼しきらんかったようやわ。まぁ、ムリもないわなぁ。生まれてこのかた中学生になるまで会うたことのない人間が、いきなり父親やって言われても」
「どうして、とも子や母親と離れて暮らしてたんですか」

 言ってしまってから、とんでもなく失礼なことを聞いたと慌てる。
 が、店主は気を悪くするどころか申し訳なさそうに笑って、答えてくれた。

「全然知らんかったんや。とも子の存在……そもそも、とも子の母親が身籠もってたなんて、全然。急に連絡が取れへんようになって、それっきりやった。どうして姿を消したのかも、未だに見当がつかん」

 店主は手のひらに乗せたライターをそっとなでる。
 イニシャルが彫刻してある部分だ。

 僕はとも子の母親について、とにかく暴力的だったという情報しか持ってない。
 子どもを愛さない、ひどい母親というイメージしか。
 けれども、それでも、この店主にとっては愛した女性なんだ。
 そんなことが理解できるようになったのは、僕が大人になったからなんだろうか。

「せやから、静枝ちゃんがとも子を連れてきたときは、そんなアホなことあるかいな、と。こんな美少女がわしの娘なんてことあるはずないと。けど、静枝ちゃんがわしの子で間違いない言うから、そうなんやろうって」
「母の話を信じたんですか?」
「疑う理由なんて、ないやろ?」

 なぜ言い切れるのか、息子の立場から考えると謎だけど。
 昔からの知り合いというのなら、僕の知らない母の一面も、きっと知っているんだろう。

「それにしても、とも子と諒ちゃんがつき合うてたなんて、全然気づかんかったわ」
「……なんか、黙っててすみません」
「いやいや、中学生がそんな親に言い出せんなんて当たり前や。とも子の支えになってくれてたんやから、むしろお礼したいくらいや」

 そう言って、店主は店の中を見回す。
 もちろん丁重にお断りするつもりだったけど、ちょっとだけ欲が出てしまった。
 視界に入ってしまったんだから、仕方がない。

「こんなんでええの? 販促物で余ってたもんやけど」
「僕にとってはレアものですよ。ケースに入れて飾っておきたいくらい」

 こんなもんがねぇ……と、店主は首を傾げながら、商品の煙草を入れるのと同じ紙袋に入れてくれた。
 後で妻に思いっきり自慢しよう。

「で、とも子さんは、今、どちらに?」
「あぁ、とも子ならもう出掛けたわ。さっき来よった男のコと一緒に」
「男のコ?」
「ほら、昨日も諒ちゃんと一緒におったやろ? テレビにもよう出てはる……名前はなんて言うたかな」
「もしかして、福山ですか?」
「福……?」
「プラタナスの、徳川じゃない方」

 それや! と、店主は手をたたく。
 あぁ……福山の知名度は、まだまだ足りないようだ。

 ***

 今朝早く、ボクはとも子さんの家に――タバコ屋『カツラギ商店』にやってきた。
 ボクなんかの出る幕やないのは承知の上やったけど、いてもたってもいられへんかったんや。
 店の前を掃除していた店主のお父さんに頼み込んで、家の中へあがらせてもらう。

「とも子さん。……とも子さーんっ」

 応答がない。

「とも子さん! いるんでしょ? 開けてくださいよ!」
「うるさーいっ! なんであんたが来るのよ! 来ないでよ!」

 ドバン! という音とともに部屋の引き戸が震える。
 おそらく、ぬいぐるみ的なモノを投げつけたらしい。

「出掛けましょうよ。いつでもどこでも、ボクがお供しますから」
「ほっといてよ! こっちは失恋したばかりで傷ついてんだからっ!」

 いやいや……ホンマに失恋したのは十年以上も前のことやろ?
 ……なんてツッコミは、ぐっと胸の中にしまい込む。

「ボクもね、割と最近、失恋したんですよ。去年の終わりぐらいやったかなぁー」
「…………」
「その女性のこと、ずいぶん前から好きやったんですけどね。いつか告白しよう思ってたのに、カレシいるって言われて、しかもそのカレシがボクもよう知ってる人やって分かって……もう、勝ち目ないっていうか」
「…………」
「っていうか、そのひと結婚しはったんで、どうにもなりませんけど」

 結婚式の様子は、テレビで観た。

 純白のドレス。
 プラチナの指輪。
 バズーカを持った不審者。
 ドレスの裾を引っ掴んで、不審者と乱闘する花嫁――。

 目の前で部屋の引き戸がスライドする。
 とも子さんの部屋の戸が開いた。

「シュミ悪いわね、あんたも、……諒も」

 腕組みしたとも子さんは呆れたような表情で、ボクを見下ろす。
 ボクは苦笑いを返すしかなかった。

 シュミが悪いとは思わへん。
 みんなが気づいてないだけで、意外と素敵な女性なんやで?
 具体的にどこが、とか説明してしまうと、まんざらでもさなそうな顔をしつつ『営業妨害よ!』なんて言われそうやから、言わんでおくけど。

 彼女の良さは、諒さんだけが分かっていれば、それでええんとちゃう?

「ちょっと、何ぼーっとしてんのよっ」

 とも子さんの怒鳴る声。
 さっき部屋から顔を出したところやったのに、もう店の外に出て仁王立ちしている。

「どこか連れてってくれるんでしょ? つまらないところだったら承知しないわよ!」

 どうやら、外に出かける気になったらしい。
 プラタナスが東京へ拠点を移す日は、まだまだ先になりそうや。

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