復旧作業を急ぐ旨のアナウンスが、ゴンドラのどこかにあるスピーカーから何度も流れる。
観覧車が停止してしばらく経った(気がするだけで、実際は数分もかかってねぇかもしれねぇ)が、汐音が不安そうな表情を見せたのは最初だけで、いまはもうフツーに外の景色を眺めている。
「怖くねぇか?」
「平気です。怖がってても仕方ないし」
「そ、そうだよな」
「……怖がってた方が、女の子らしいですか?」
「いや、そういう訳じゃねぇけど……」
クススッと笑って、汐音は再び観覧車の外に視線を向けた。
……まぁ、無理に会話しなきゃなんねぇっつーこともねぇか。
動かない観覧車に苛立っても仕方ねぇし……と、俺も景色を眺めてみた。
そんなに高い位置じゃねぇから、地上の様子もよく見える。
何気なく観察していると、停止した観覧車に向かって両手を大きく降る、一人の見慣れた男を発見。
「……あ、高橋だ。こっち見て手ぇ振ってやがる」
明らかに俺に向かって手を振る高橋に、手振りで『ふざけんなっ』とやってやる。
「…………笑ってますね」
その様子を見ていた汐音が、地上にいる高橋を見つめながら無表情で呟く。
し……しまった。
彼女は高橋のこと……嫌ってんだったな。
慌てて話題を変える。
「あ……さ、さっき、何が見えるっつってたっけ?」
「レインボーブリッジ」
「どっちに?」
「あっちの方に」
「へぇ……あぁ、前にも来たことがあるって……」
「えぇ。友だちと」
「友だち? ……奈々子ちゃん?」
汐音は、首を横に振った。
「奈々子と出会う、ずっと前。ハタチ過ぎくらいのときかな? 高校の同級生だった友だちと」
「……って、男?」
何を聞いてんだよ、俺はっ。
「えぇ、男の人。でも、付き合ってたとか、そんなんじゃないんです。本当に、友だち」
躊躇うことなく答えた汐音は、笑って続けた。
「イブの夜にね、女の子の友だちは、みんなカレシとの予定が入ってて、わたしだけ独りで……。その同級生だった友だちに『つまんない』って愚痴ったら、『ちょうど、時間が空いてるから』って、この遊園地に連れてってくれたの。でも、周りがカップルばかりでしょう? だから、『ここは友だちと来るところじゃないね。次はお互い、好きな人と一緒に来たいね』って」
汐音はそう言って、少し照れたように俺の顔を見つめて笑う。
……おぉっ?
まさか、これは……。
遠回しに『俺のことが好きだ』っつー……ことかっ!?
「そ、それにしても、その友だちってヤツ、バカだよな。SHIOちゃんみてぇな女を『友だち』のままにしとくなんて、もったいねぇよ」
なっ……何言ってんだ、俺っ?
今の発言は軽すぎたっ。無かったことにしてくれっ!
……と思ったが、汐音は特に気にする様子もなく、冗談めかして、
「ホント、わたしもそう思ったんですよ。『わたしじゃダメなのっ?』って。でも……言えなかった」
言いながら、汐音は再び視線を地上へと向けた。
「……そいつのこと、好きだったのか?」
「好き……だったのかな。未だに分からないんです。あっ、でも、未練があるとかじゃないですよっ。もうずいぶん昔の話だし……それに……」
汐音はガラス越しに地上を見つめながら、少し寂しげに笑って、言葉をつなげた。
「親友に聞いたんですけど、その彼……もうすぐ結婚するんですって」
ゴンドラがガクンと揺れて、正常に復旧したことを告げるアナウンスが流れる。
視界の端、彼女がさっき指差した方向に、レインボーブリッジが見えた。
地上から遠ざかれば遠ざかるほど、広がる東京の夜景。
けれど、俺にはその夜景を楽しむ余裕なんてなかった。
汐音の言う『友だち』が誰なのか、俺には見当がついちまった。
どうして彼女が俺にこんな話をしたのか、その真意は分からねぇ。
そいつの名前を口に出して、彼女に確認するなんて勇気も持ってねぇ。
ただひたすら、言い様のないモヤモヤ感が身体中を駆け巡る。
観覧車のゴンドラが、てっぺんに向かってゆっくりと上昇を続ける間中、ずっと。
「あ、樋口さん、もうすぐてっぺん――――」
そう言って振り向いた汐音に手を伸ばして、抱き寄せて。
無言のまま、俺は彼女と唇を重ねた。
嫌がる素振りもない彼女を、強くキツく抱きしめて。
嫉妬心?
独占欲?
……分からねぇ。けど、たぶん両方だ。
自分が彼女をどう想っているのかっつーことよりも。
負けたくない。
彼女の中で、俺が『一番』でありたい。
そんな身勝手な考えしか浮かばねぇ。
こんなことで対抗意識なんて燃やしても、何の意味もないことは、分かってんのに。
「もう、地上なんて見えねぇだろ? そんなバカな『友だち』のことも、探したって見えねぇよ」
「じゃあ……地上に降りた後は? いつ、また目の前に現れるかもしれないのに」
「……そしたら、また思いっきりそっぽ向いて、俺のこと見てればいい」
微かに彼女が頷いたのを確認して、俺は再び、彼女の唇を塞いだ。
互いの呼吸が苦しくなるくらい、激しく……熱く。
何度も唇を合わせながら、心の中で俺は決めていた。
今夜はもう、帰ろう。
飯森社長とのゲームなんか、放り出して。
こんな気持ちで彼女を巻き込むなんて……できねぇよ。
観覧車を降りた後、園内を少しだけ歩いて、俺たちは遊園地を後にした。
手をつないだり腕を組んだりなんてことはしてねぇけど、さっきまでの微妙な距離は、なくなったような気がする。
退場口から出て、いかにもクリスマスらしいイルミネーションが施されている外壁の前で、俺は足を止めた。
「きょうは、ありがとな。気をつけて帰れよ」
「……え?」
意表を突かれたような顔で、汐音は俺を見つめ返す。
「帰るん……ですか?」
「あぁ」
「あ、じゃぁ、わたし、送っていきますよ」
「いや、いいよ。タクシーでも拾って帰るから」
「……これから仕事、ですか?」
「そうじゃねぇけど……」
「だったら――――」
俺の肩に、汐音はコツンと額を乗せた。
「『帰る』なんて言わないで。もう少し……一緒にいてください」
そんなこと言われちまったら、帰れるわけ……ねぇだろ。
どちらからともなく互いの顔を寄せて、唇を合わせた。
遊園地から帰る客も含めて、そこそこ人通りのある、その場所で。
冷静に考えると、いつ撮られてもおかしくねぇ、すげぇ危険行為。
だけど……周りのやつらも似たようなことやってんだから、大丈夫――。
――ピリリリリッ。
突然、携帯の無機質な着信音が鳴り響く。
この間、着信音の設定をいろいろ変えてるときに、適当に割り振った『パターン01』。
ったく、誰だよ? いいとこなのに……。
仕方なく唇を離して、携帯を確認。
…………やっぱり。
通話ボタンを押して携帯を耳に当てると、相手は俺が口を開くより先に、喋り始めた。
『ちょっとどうなのよ、調子は。観覧車、てっぺんで止まったでしょう? そろそろいい感じなんじゃないの?』
やっぱり、このババ……いや、婦人の仕業だったか。
「……止まったけど、てっぺんじゃなかったですよ。すげぇ中途半端な位置」
『あら、おかしいわね。女連れの金髪男が来たら、てっぺんで止めるように、指示したのに』
おいおい……金髪にしてる男なんて、今どきそこらへんに腐るほどいるだろっ!
****
誰と話してるんだろう……?
樋口さんが掛かってきた携帯に出るとき、相手の声が微かに聞こえた。
女の人だった。
樋口さんの口調はずっと敬語だから、きっと仕事関係の人。
……そう思いたいのに。
「……約束の時間は午前3時でしょう? まだ二時間近くありますよ」
……約束? 午前3時?
わたしと遊園地で会った後、その女の人と会う予定だったの?
だから『帰る』って……?
「…………はぁっ? いや、今すぐは無理…………そーじゃなくて…………」
言いながら樋口さんは、わたしを見つめた。
やだな……わたし、多分きっと、嫌な顔してる。
『行かないで』……って。
迷惑だよね、ちょっとキスしたくらいでカノジョ面なんて。
でも……。
「…………」
困った顔でわたしを見ていた樋口さんは、携帯を耳に当てたまま。
空いた手でわたしを抱き寄せた。
ギュッと強く……なんだか、『俺はどこにも行かない』って言われてるみたい。
そう思った……のに。
「…………分かりました。今から行きます」
樋口さんはそう言って、携帯をパタンと閉じた。
……なんでっ?
ちょっと意味分からないんだけどっ。
「あのっ、樋口さんっ……」
「ごめん、俺の勝手な都合で、ホント、悪いんだけど……一緒に来てほしいんだ」
……え?
「一緒に? って……どこに?」
わたしが聞くと、樋口さんは躊躇いがちにわたしの手をとって、駐車場とは反対方向へと歩き出した。
……だから、いったいどこに行くのっ!?
訳の分からないまま樋口さんについていくと。
たどり着いたのは、遊園地から歩いて数分のところにある、イースティンホテル。
しかも、エグゼクティブクラスの部屋に泊まる人しか入れないラウンジに直行。
さっき樋口さんが携帯で話してた相手が……ここに?
ラウンジは既に明りがほとんど落ちていた。
きれいな夜景の見える、隅の方の窓際の一角に、キャンドルの灯るテーブル。
樋口さんは慣れた様子でラウンジに入ると、そのテーブルでカクテルグラスを傾けている、一人の女性のところへと進んでいった。
わたしの手を握る樋口さんの手が、少し震えてる気がする。
「千里さん」
樋口さんが呼びかけると、女性は振り向いて、
「……あら?」
わたしの顔を見て、意外そうに呟く。
しゃ……社長っ!?
なんで、ハギーズの樋口さんが、わたしの所属してるモリプロの飯森社長と……!?
「まさか、ウチの事務所のコを連れてくるとは思わなかったわ」
「『モリプロのタレントに手を出すな』とは言われてません」
「そうね、確かに言ってないわ」
「協力してくれるんですよね?」
カクテルグラスをテーブルに置いて、スッと立ち上がった飯森社長は。
手にしていたホテルのカードキーを、樋口さんに差し出した。
「私がどれだけ力になれるか、分からないけど」
「何を言ってるんですか。千里さんがいたら無敵でしょう? 千里さんは、『モリプロの社長』なんだから」
カードキーを受け取った樋口さんは、飯森社長に向けて、ニッと笑う。
それを見た飯森社長は、少し悔しそうに……でも笑って、こう言った。
「完全に、私の負けね」
****
飯森社長とのゲームでの戦利品を使って、イースティンホテルの最上級スイートのドアを開ける。
うおぉっ、さすが(ウワサでは)一泊、数百万っ!!
部屋の内装から、置いてある備品に至るまで、すべて最高級っ!!
……なんて、驚きと感動に包まれてる余裕なんて、俺にはなかった。
戸惑う汐音をなんとか促して、この最上級スイートに入ったはいいが。
緊張の糸がプツリと切れちまって……ドアにもたれて、ずるずると座り込んじまった。
ラウンジで飯森社長の姿を見つけたとき。
土壇場にきて、俺は正直、怖気づいてた。
『モリプロのタレントに手を出すな』と、怒鳴られて。
俺と飯森社長との、『出張ホスト』的な関係も、バラされて。
汐音とは、もう、これっきりかもしんねぇ……なんて。
まぁ、その時点では既に、逃げ出すっつー選択肢は残されてねぇんだけど。
「あの……樋口さん」
未だドアの前で座り込んでる俺に、汐音は心配そうに声を掛けた。
……当然、不審に思ってるよな。
自分が所属してる事務所の社長と、よその事務所のタレントの『妙な関係』。
いきなり連れてこられた、高級ホテルの最高級スイートルーム。
説明しなきゃなんねぇって、分かってる。
真実を全て……は無理だけど、ある程度のことくらいは。
知る権利が汐音にはあるし、説明する義務が俺にはある。
分かってんだけど……。
「ごめん。今は何も聞かないでくれ。いつか、ちゃんと話せるときがきたら、話すから」
どう説明していいか分からなくて、情けねぇけど先延ばし。
『いつか』なんて永遠に来ねぇような気も、しないでもない。
さすがに怒って帰られちまっても、文句は言えねぇよな……。
……と思ったが、汐音はあまり気にしてなさそうな様子で、
「向こうの窓から、すごくキレイな夜景が見えるんですっ。レインボーブリッジも、東京タワーも見えるの。さっきの観覧車から見るより、ずっと素敵」
と、汐音は、部屋の大きなガラス窓を指差した。
俺がヘタレてる間に、部屋の中をいろいろ見てたんだろうか……。余裕だな。
「……ね、一緒に見ませんか?」
汐音は俺に向かって手を差し出して――――ニコッと笑う。
「え? あ……あぁ、もちろん」
平静を装って、俺は差し出されたその手を握って立ち上がった。
このとき俺は、ようやくハッキリと自覚したんだ。
俺、確実にこの女に惚れたな……ってな。
10 俺と夜景だけ、見てろよ。

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