諒くんからの指示通りにオフが取れた。
それをメールで伝えると、当の諒くんからは『その3日間は空けておいてください』とだけ返事が来た。
7月下旬。
今日はその3日間のオフの初日なんだけど。
あれからお互いに仕事が忙しかったりして、一度も会ってないまま一ヶ月が過ぎた。
結局、私は諒くんから、この3日間のオフについて、何も聞かされてない。
理解不能。
何が? って、そりゃあもう、何から何まで。
諒くんと私の関係って、そもそも、何?
同じ業界で働いてる二人。
それは、間違いない。
お笑い芸人とアイドルという違いはあるけどね。
それでもって、数ヶ月前からはご近所さん。
これも、間違いない。
私の住むこのアパートから徒歩数分のところに、諒くんのマンションはある。
この二つの事実から考えると、仕事帰りに偶然会って、一緒にお茶したり食事したりってことは、そう不自然なことではないとは思うのよ。
諒くんが、年上の私に対して敬語を使わないのも、別に気にならない。
どうやら、この業界に入った時期もほぼ同じだったみたいだしね。
うん。ここまでは、一応、理解できる。
理解できないのは、この先。
諒くんは、私のことを『みっちゃん』って呼んでる。
おそらく、『道坂』の頭文字からとってるんだろうけど、そんな風に呼ばれたことなんて、この34年の人生の中で一度もない。
諒くんは、自分のことを『諒くん』って呼ばせてる。
私が自発的に呼び始めた訳じゃないのよ。
諒くんが『プライベートでは名字じゃなくて名前で呼んでほしい』って言ったのよ。
一番理解できないのは、……その、あれよ。
今から二ヶ月くらい前に、諒くんから突然、キスされちゃった件。
実は私、仕事以外でのキスって、あれが初めてだったりする。
つまりは、実質的に、34歳にして俗に言うファーストキスだったわけ。
だけど、あれ以来、私と諒くんとの間に何か変化があったかというと、実は、何も変わってない気がする。
相変わらず、仕事の帰り道に偶然会って。
お茶を飲んで、食事して。
その後、私のアパートまで送ってもらって。
一ヶ月くらい、そんな感じだったわけ。
そこへ、『自分のオフに合わせて、三日間空けておいて』という要望。
超多忙な諒くんにとって、貴重なオフのハズなのに。
せっかくだから、『カノジョと過ごす』なんてことは考えないのかしら。
そういえば、諒くんってカノジョいるんだろうか。
……いたら、私みたいなおばさんに、キスなんてしないわよね。
だいたい、諒くんはどうして私にキスなんてしたんだろう?
私、ただただ驚いて、そんな重要なことにまで考えが及ばなかった。
まさか、私のこと、好き……とか?
いやいやいやいや。
あり得ないでしょう。
だって、プライベートではオーラがないとはいえ、あの『Hinataの高橋諒』でしょ?
それが、子どもには見せたくない番組ランキングの常連になってる『しぐパラ』のレギュラーメンバーである『お笑い芸人の道坂靖子』のこと……?
ないない。あり得ない。
もし仮に、アイドルとお笑い芸人じゃなかったとして。
イケメン年下男子が、こんな地味なおばさんを好きになるなんてこと。
やっぱり、あり得ないと思う。
じゃあ、きっと、あれだ。
諒くんくらいの若い世代の人たちは、きっと挨拶代わりに気軽にキスしちゃったりするんだわ。
もしくは……そう、やっぱりドッキリとか。
諒くんはあのとき、『ドッキリなんかじゃないから』って言ってたけど。
あれだって、『いまドッキリだなんてバレたらマズい!』ってことだったのかもしれない。
最近のドッキリはどんどん悪質化してるから、数ヶ月の長期戦で仕掛けてくるなんてことも、珍しくない。
そうだ。
きっと、諒くんが近々ドラマや映画に出ることになっていて、このドッキリはその番宣のためのものなんだ。
じゃあ、ドッキリのネタばらしは、この三日間の最後辺りになるのかしら。
そもそも諒くんの『五日間のオフをもらった』なんて話も、実はウソだったりして。
だって、ほら、ドッキリだったら、それはもう仕事なわけで。
……ってことは、やっぱりあのキスも仕事ってことになるのよね。
――ピンポーン。
玄関のチャイムの音。
……諒くんかしら。
うーん、ドッキリって気づいちゃったら、なんだかやりづらいわ。
平常心、平常心。
気づかなかったフリしなきゃ。うん。
あくまでも、私にとってはこれから始まる三日間は『オフ』なのよ。
これが最後かもしれないんだし。
イケメン年下男との楽しい時間を満喫しなきゃ、損でしょ。
*****
玄関のドアを開けて顔をのぞかせた彼女。
その表情は普段と変わらない。
「おはよう。久しぶりだね」
彼女の様子に少しだけ戸惑いながらも、僕は笑顔で声を掛けた。
このところ、とても忙しかった。
彼女を駅周辺で待ち伏せすることもできなかった。
だから、僕たちは実に一ヶ月ぶりに会ったことになる。
この一ヶ月、スケジュールも仕事内容もハードだったけど、今日というこの日を心待ちにして頑張ってきたんだ。
別に、『彼女に会えないさみしさから、仕事が手につかない』なんてことはないけど、それでも、ふとした瞬間には彼女のことを思い出してた。
だから、本当は今すぐここで抱きしめてしまいたいくらい、会えてうれしいんだ、僕は。
それなのに、彼女はちっともうれしくなさそう。
「みっちゃん、どうしたの? 体調悪い?」
「そんなことないけど。なんで?」
「いや、だって……冴えない顔してるから」
僕が言うと、彼女は眉間にシワを寄せた。
「私の顔が冴えないのは、生まれつきなんだけど」
あ、いや……そういう意味じゃなかったんだけどな。
なんだか、ペースが狂う。
僕たち、付き合い始めたばかりですよ。
いわゆる『ラブラブ期』ですよ。
そんな時期に一ヶ月も会えなかったら、不安になったりしない?
電話もメールもできなかったから、もしかしたら怒ってるかもしれないな、とか思ってたんだ。
正直なところ、面倒くさいよ。そういうの。
今まで付き合ってきた女性の何人かとは、その辺りでうまくいかなかったという自覚もある。
けれど、彼女相手なら、それも全面的に受け止めようと思ってたわけ。
それが、いざこうして会ってみたら、これだ。
不安になってるようでもなく。
怒っているようでもなく。
それでいて、久しぶりに会えてうれしい、というわけでもなさそう。
彼女にとっては、僕と一ヶ月会えなかったのは、特にどうってことないみたいだ。
……もしかして。
この地味な見かけによらず、実は恋愛経験が豊富だとか?
あり得るかもしれない。
僕よりいくらか年上なんだし。
この落ち着き払った様子は、きっと、そういうことなんだろう。
と、いうことは。
それだけ僕のことを信じてくれてるってこと、だよな?
あれこれ波風を立てず、穏やかに僕とつき合っていこう、ってことだよな?
なんだ、そうか。
不安になってたのは、僕の方だったのか。
いやいや、僕もまだ若いね。
「で、諒くん。今日はどういうご予定で?」
「あ、うん。……今日は特に決めてないんだけど」
まだ玄関のドアから顔だけのぞかせている彼女に、僕は手土産を差し出した。
怒ってるかもしれない彼女をなだめるために買ってきた、プリン。
その必要性はなくなってしまったけど、このまま僕が持っていても仕方がない。
「これ、プリン。さっき買ってきたんだ」
「プリン? じゃあ、うちの冷蔵庫に入れておこうか? それとも、諒くんの家まで行って置いてくる?」
「ん? いや、そうじゃなくてさ」
一緒に食べたくて買ってきたんだ。
……なんて、言えるわけがない。
「じゃあ、差し入れ?」
いやいや、仕事じゃないんだから。
「四つ入ってる。僕とみっちゃんと、二つずつ」
「そうなの? でも、諒くんの分はどうするの? これから出かけるんでしょう?」
「できれば、今、食べたいんだけど」
「今? ……どこで?」
「だから、そこで」
僕は、彼女の部屋の中を指差した。
要するに、『僕を部屋にいれてください』ということなんだけど。
彼女は怪訝そうに眉をひそめて、周囲を見回す。
「……大丈夫なの?」
誰かに見られていないか、警戒しているらしい。
やはり、彼女も僕と同じく芸能人だ。
僕自身はそれなりの『覚悟』はできてるから、つき合ってるのがバレても全然平気だけど。
彼女が世間に知られるのを望まないというなら、それを尊重するべきだと思うし。
いざとなったら事務所に頼み込めばなんとかなるだろう。たぶん。
「問題ないと思うよ。もし、何かあっても、大丈夫。なんとかするから」
「そう? じゃあ、どうぞ。思いっきり散らかってるけど」
そう言って、彼女は眉をひそめたまま、僕を部屋へと通してくれた。
……どうして、笑ってくれないんだろう?