「うぅ……さ、寒いっ……」
昨夜降り積もった雪は、夕方になっても溶けてなくなることなく、僕の帰宅時刻を予定より大幅に遅らせていた。
いつもの通い慣れた道。
この先もずっと、歩く道。
滑って転ばないように、時間をかけて歩いていく。
途中、ついいつものクセで、あるアパートの前で立ち止まった。
ん……明かりが点いてる。
あと数日もすれば、もうこの部屋に来ることもなくなるんだな。
なんだか少し、寂しいような気もする。
あのときは、今とは季節が真逆の暑い夏だった。
あのとき手土産にしたプリンと同じ物を、今朝は二人で一緒に食べた。
あのときは……あぁ、あれからもう三年半も経つのか。
初めてこの部屋を訪ねた日のことを思い起こしながら、僕はチャイムを押した。
****
「おはよう。……久しぶりだね」
住み慣れた自分の部屋のドアを開けると、見慣れた顔の男性が笑いをこらえながらそう言った。
「何が『おはよう』なのよ。もう日もすっかりくれちゃってるじゃない。しかも、『久しぶり』って……朝も一緒にいたでしょ」
いつもの調子でツッコミとも呼べないような返しをしつつ、正直なところ、私は驚きを隠せないでいた。
『おはよう。……久しぶりだね』
それは、今その言葉を口にした本人が、初めてこの部屋に来たときに言った言葉で。
私はついさっきまで、そのときのことを考えていたから。
「みっちゃん、もしかして片付けてたの?」
「そうよ。あんまり長いことこの部屋を借りっぱなしにしておくわけにもいかないでしょう」
「そうだけど……でも、余計に散らかってるような気がするのは僕だけ?」
言いながら、諒くんは部屋を見回した。
おっしゃる通り。
諒くんがこの部屋に出入りするようになってからは、ある程度きちんと片付けてはいたんだけど。
数日前から『荷物の整理』と称していろんなものを引っ張り出しているうちに、以前よりも散らかるはめになってしまった。
「僕の部屋も物が多いから、持ってくるのは本当に必要なものだけにしてよ」
「わかってるわよ。……あ、そうだ。さっき、これが出てきたんだけど……」
うっかりなくしてしまわないようにズボンのポケットに入れておいたものを取り出して、諒くんに手渡した。
****
彼女から手渡されたのは、ライターだった。
三年半も前の夏に、禁煙するからと言って彼女に預けたものだ。
「あぁ、懐かしいね。ちゃんとなくさないで持っててくれたんだ」
不思議なもので。
このライターをくれた『昔のカノジョ』の思い出よりも、いま目の前にいる『僕の妻』となった彼女との夏の記憶の方が、印象深い。
「これから一緒に暮らすんだし、私が持ってても諒くんが持ってても変わりないから、渡しておこうかと思って」
「ん……でも、たぶん、このライター……使えないんだよね」
「え? なんで?」
「これ、オイルライターだから、燃料になるオイルを補充しないと使えないんだよ。中に残ってた分はもう揮発しちゃってるだろうし」
「だったらオイルを補充すればいいんじゃないの?」
「うん、まあ、そうなんだけど。別に、タバコ吸いたいと思わないから」
「でも……このライター、大切な物なんでしょう?」
相変わらず鈍いね、彼女は。
「吸いたくなったら返してもらうって言ったでしょ? みっちゃんの顔を見てたら、吸いたいなんて思わないから」
「どういう意味よ」
彼女は不機嫌そうに、眉間にシワを寄せた。
僕の言いたいこと、全然伝わってないし。
僕がタバコを吸わないでいられてるのは、ずっと貴女の顔を見てるから。
この先もずっと、貴女の顔を見続けていくんだろうから。
だから、僕がこのライターを返してもらう日なんて来ない。
――絶対に。
「とにかく、みっちゃんが持っててよ。なんだったら、いつも使ってるカバンに入れっぱなしにしといてもいいから」
言いながら僕は、近くに置いてあった(というか、転がっていた)彼女のカバンに、ライターを突っ込んだ。
「ねぇ、みっちゃん。寒いんだけど」
「ん? あぁ、そうね。エアコンのプラグも抜いちゃったし……」
「早く帰ろうよ。お腹も空いたしさぁ」
「うん、でも、もう少しだけ片付けてから……」
「却下。『もう少し』で片付くなら、そもそもこんなに散らかってないって」
「そ、それは、そうだけど……」
しゅん……とうなだれる彼女。
僕はその彼女の手を取って、散らかった物の山から引きずり出すようにして引き寄せた。
「片付けなら、来週はスケジュールが割と空いてるから手伝うよ。だから、今日は帰ろう? 僕、もう限界」
「え? そんなに寒い? それとも、お腹空いてる?」
どっちも正解だけど、どっちも不正解。
「帰ったら覚悟しといてよ」
「え? 何が?」
「…………いや、こっちの話」
あの夏に固めた決意も、守り通して三年半。
こんなに時間がかかるとは、正直思ってなかったけど。
その分、これから先、とても充実した毎日を過ごせるんじゃないかなって気がしてる。
たぶん、きっと……ね。